レヴィンの死後、NTLを中心にラボラトリートレーニングは発展していったが、その17年後にその成果をまとめた著書が生まれた。これがレヴィンの弟子たち、つまりブラッドフォード、ギブ、ベネらの編集による『感受性訓練』である。
彼らは明らかにレヴィンの哲学・思想を受け継いでいる。彼らの認識ではTグループとは人間と人間組織の変革を促進するための新しい開発技術であり、行動科学の成果を民主主義の実践的要請に結びつけ、科学と民主主義の精神にもとづいて、社会的実践を改善しようとする努力ととらえられている。
しかしこの『感受性訓練』では、単に民主主義的、科学的価値観を越えた考え方が見られる。その典型が人間(人間関係)をどう捉えるか、集団(グループ、社会)をどう捉えるか、人間の成長と学習をどのように捉えるかの考え方である。そしてそれぞれはラボラトリーと密接に関係している。以下、順に見てみよう。
(1)民主主義的、科学的価値観
『感受性訓練』においてもその民主主義的、科学的価値観は中心的位置を占める。彼らは「民主的な諸概念はラボラトリーの目標、内容などを選択する際の「記述」概念でもあり、価値への主体的関与を作りだすものとしても機能している。科学的方法(価値)と民主的方法の2つの価値観は異なる秩序を持つが、ラボラトリー開発者はそれらの類似点を見ている。」と述べている。以下、レビューしておこう。
民主主義は人間が他者と共同生活する上での問題を協力して解決できる潜在能力を持つとする。つまり共通の問題は、その解決によって影響を受ける人々の参加がなければうまく解決できないという仮定がそこにある。集団的取り決め、判断を最終的に決定する手続きは合意による妥当化の手続きである。ただし合意がいつも正しいとは想定していない。常に誤謬をおかしうると考える。これは多数派、集団そのものの横暴や誤謬を防ぐための重要な安全弁となる。
このため民主主義では、自己に影響をもたらす意思決定の諸過程に平等に参加する自由が各人になければならない。従って自由な参加を妨げる経済的、社会的、心理的条件を除去することが必要となる。また民主主義では人々は妥当な意思決定に必要な情報を集め、それを提供することを学ぶ必要がある。また証拠の解釈、証拠と適合した形式・配置を作りだす際に、他者と一緒にそれに参加することを学ぶ必要がある。これは価値の葛藤や勢力の抗争を直視し、建設的に処理することを学ぶ必要性を意味する。
また事物を解釈する際に既成のやり方にとらわれていないかを吟味し、新しい情報や改めて明確化された目標ならびに価値観とよりよく調和する新たな方法を目指し、実験的に行動することを学ぶ必要がある。どれ一つをとっても自然に達成されるものはない。
ラボラトリーは、先行する価値選択が学習の妨げになると思われる領域で学習を働きかける。自らの認知能力だけでなく、どのような価値選択を持っているかをさらけだし、公の場の吟味にゆだね、個人の再構成を行うことができるように援助する必要がある。ラボラトリーの中心目的はさまざまの制度的環境における人間問題の処理に、広く民主的・科学的方法論を活用することにある。特に複雑な官僚組織が、健康や福祉、教育のための施設の中に浸透し、人間関係の非人間化が進んでいる中、17年のラボラトリーの経験を生かし、組織における官僚機構内の人間性の復活にアプローチしていくことが目指されたのである。
しかし『感受性訓練』では、Tグループの革新者の重要な関心事として、現在の実際活動において脅かされているか、十分発達していない諸価値の問題があるとする。
一、科学に対する価値
行動科学が、実践問題解決に対して、不十分にしか利用されていない。それは科学に内在する価値が、実践的問題を解明していく過程で有効に機能しなかったことにある。つまり科学の持つ道徳性が、能率が必要とされる場面、競争場面では無視され、拒否されている。それは特に以下の3点について言える。
①問題とその解決過程に含まれるあらゆる事実に正面から対決しなければならない
感情・動機など問題解決には自分に直面することも必要となる。
②材料収集とその処理における客観性
客観性を達成するには、主観的要求につきものの、偏見によるゆがみと闘いうる科学的方法を受け入れる必要がある。人間に関する研究では、自分の価値観が研究仮説にされることを認識する必要がある。
③研究者は、真理の探究において他の研究者と協力すべき義務がある
研究の公表と検証が必要となる。
二、民主主義に対する関心
民主主義は、組織体・地域社会の意思決定の決定要因となるべきなのに無視されている。民主主義を現代生活の条件にもっと密接なものにするには、民主主義的価値の再定義が必要となる。特に相互依存性の単位の大きさと複雑性の増大の中で、集団による参加的解決、協力的解決が必要な複雑な問題が増加している。民主主義は、一つのイデオロギーであり、集団で理性的意思決定が行えるよう人間関係の技術と方法をマスターすることが必要となる。
科学的研究の価値と民主主義の価値には血縁関係がある。
①問題に直面した時、現実的な態度をとること
②問題解決過程における自己の見解、見通し、好悪に関してどこまでも客観的であること
③問題の選定や解決において、理性的に協力しようとする気持ちになること
このように、レヴィンの民主主義的、科学的価値観は、彼の弟子たちやラボラトリーに色濃く影響を与えている。しかしまたその価値観の広がりを阻むものも同時に明確化しつつある。それはまず組織や社会における競争と能率を重要な価値観である。もう一つは科学的方法に基づく民主主義では、自分の感情、価値観、偏見に客観性をもって向き合える科学的価値観を持つ個人が前提となっていることである。しかし実際にはそれは不安、苦痛、恐怖を伴うものであり、それゆえに困難を極めると考えられる。
(2)人間観(人間関係観)と人間の成長(学習観)について
こうして当初、科学的価値観を持つとされた人間像は、その後のラボラトリーの経験の中で次のように変遷した。『感受性訓練』は述べている。「社会の中でより高い地位へ移動しようとする「文化ゲーム」は、結局自分たちの本当の姿について、確信が持てない人間を創り出している。こうしてTグループでは、参加者は初期の社会化過程で十分解決されなかった個人的問題を処理すること、つまり自己についての学習が強調されるようになった。言い換えれば、分裂した社会の中で自己同一性を探究しようとする個体が、どのように変容していくかに焦点があたるようになった。」
ラボラトリー・スタッフは参加者と共に「再教育」という仕事にあたっているとする。参加者は集団成員、参加に関連する価値観、概念、行動をすでに学習しているが、過去の学習には、機能しているものもあり、していないものもある。行動に生かされているもの、前意識的ではっきりした表現様式をとりえないまま保持されているものがある。再教育には、それらを吟味し、選択・総合を達成するという骨の折れる過程が含まれる。
具体的にはラボラトリーはさまざまな学習理論を用いながらそれを進めるが、ここでは代表的な学習理論とラボラトリーとの関係を見ていくことで、ラボラトリーの持つ人間観、学習観を見ていきたい。
一、定型的学校教育との関係
多くの伝統的学校教育を貫く前提は、固定化した文化的環境、この環境にうまく対処する情報・技能をまだ習得していない可塑性に富んだ学習者(人間)というものである。学習とは、学習者がそのような情報・技能を習得する過程で、学習者の行動に測定可能な変化が見られることとされる。一方ラボラトリー法は総括的学習観を持ち、学習とは学習者(人間)と環境とのやりとり、または相互交渉で、学習者と環境はいずれも固定されたものではなく、共に変容すると考える。
例えば従来の学習理論では反応の正しさ・適切さは、教師や文化が決められた「標準」に照らして決定した。ラボラトリー・グループも成員の反応と集団の業績とを測定することのできる標準の公式化を目指している。ただ相互に満足しうる適切さの標準の設定には、互いが互いの「環境」となる協働的相互交渉が必要となる。ラボラトリーでは、人々が学習者でもあるとともに、他者に対する環境としても機能している。
もちろん学習心理学のモデルはラボラトリーで重要でないことはない。例えば強化とフィードバックにおける「正しい反応」は正の強化を受け、学習者の反応レパートリーに定着するなどである。ラボラトリーはこうした強化機能を果たす媒体としての「他者」を提供する。
例えば学習者の探索反応の効果に関する即時的なフィードバックは強力な効果を発揮する。学習集団が、反応をさし控えたり、歪曲する要因を識別し、かつ処理して、反応の抑制や歪曲を解消させ、フィードバックをより瞬間的で信頼性の高いものとするよう助力を提供することが重要となる。学習集団に、より効果的なフィードバックシステムを作り上げることは、妥当な学習が行われるための一つの条件であり、また現実に直面することの精神衛生上の価値と信頼度の高いコミュニケーションの持つ民主的価値に奉仕することにもなる。
二、精神医学とカウンセリング―パーソナリティ理論
カウンセリング的面接によって行動の変化を誘発する効果的方法には共通点がある。そしていくつかはラボラトリー法の中に組み込まれている。カウンセリング過程で進行する学習は「再学習」(過去の間違った学習の矯正)であるが、過去の学習は現在の学習場面の内に力動的に機能する(特に学習教材が自他の行動である時)。過去の学習は面接過程においてさまざまな仕方で自らをあらわす。そのため他者の行動が学習者に与える刺激に対して、学習者は自己維持の要求(それが古い不適切なものでも)に役立つようなしかたで反応する傾向があり、その結果他者の行動や意図に対する学習者の認知が歪曲される恐れがでてくる。
精神科医、カウンセラーは学習者を助けて、こうした歪みが自己についての学習への一つの主要な通路としての意味を持つことを、学習者が洞察できるようにする。過去の学習は他者の側からおこされる変化の誘発に対する抵抗として働くが、カウンセラーや精神科医はこれらの抵抗が自己理解の重要な門戸であることを学習者が認識するよう励ます傾向がある。
認知の歪みや抵抗への重視は、ラボラトリー法による学習過程にも組み込まれている。そこでは社会的実在に適切に対処するのに不可欠な先行過程として、自己に対する理解が学習の目標となる。ポイントは変化に対する彼らの抵抗が、自分の特徴である要求・感情・価値を理解する一つの方法であることを熟考するように励まし促すことにある。
精神科医、カウンセラーは、メンバーと自分自身との関係に集中する。例えば理由なしにカウンセラーに不信感を持つ人に、これを検討してもらい、事実に基づいた関係が樹立できるように、関係そのものに含まれる典型的な困難を洞察してもらう。ラボラトリーでも学習者と援助者の関係は、再学習の過程における一つの主要な内容となる。
ただラボラトリーでは学習者と援助者の関係の質は、再学習過程に必要なコミュニケーション、自己開示の条件として機能する。例えば学習者がトレーナーを信頼しないと、コミュニケーションは抑制され、再学習を左右する重要な資料は利用できなくなる。そこでラボラトリー法を用いる人は研修内部の学習者相互間の関係に同じように関心を持つ。相互的援助をよしとする標準は、集団自身の手によって、集団内部に樹立されねばならない。
三、社会化と再社会化
人間の社会化のドラマでは、理想的には依存の状態から自律と相互依存の状態への移行が起こる。人間の発達に関する一つの座標軸として、最初は権威への服従者として、後には権威の担い手として権威関係を処理するという能力の成長がある。青年期には両親の権威に対抗するための盾として、家庭外の仲間集団があり、こうした仲間関係が仕事や市民生活や遊び、教育、宗教など個人生活に浸透する。
このように人間の発達は、仲間関係、権威関係との複雑な相互作用を通じて進行する。ところで成熟した自律とは関係からの独立と同じでない。それは仲間関係、権威関係を変化させるという方向に向かって現実志向的に機能する能力であり、遭遇した諸問題を自己・他者の保全と成長を維持・向上させるように処理する能力である。こうした社会化のドラマとラボラトリーでの学習に関連付けるものとして次の点がある。
・依存から相互依存における自律への移行には、危機的位相(フェーズ)がある
不十分にしか達成されていない社会化の領域をラボラトリーに持ち込む(権威関係、仲間関係)場合があり、ラボラトリーでの経験が他者に処する自己の行動戦略の再吟味となる。つまり青年期においてなされた主体性、世界観、個人的充足感に関する決定が露呈しやすい。それが集団からの情緒的支持の中で行われる。
・社会の加速度的変化の中で、再社会化が成人に対する絶えざる要求になる
各自が自分の再社会化の問題の意識的な処理方法を学習し、こうした問題に直面するのを助けるべく開発された特殊な資源をも、意識的に利用する方法の学習が必要となる。ラボラトリーは上記の問題をいっそう客観的、合理的に処理していくための自分の仕方を改善できるよう援助を受けられる。(また援助を与える)
四、小集団の理論と集団心理療法
子どもの社会化には、集団成員性の取得の問題が重要(自己の価値志向、他者への基本的態度、人間関係の場で自らを処していく基本的様式)であり、再社会化には集団内における成員性の発達が含まれる。
そしてラボラトリーの集団は、外の集団とは違う集団標準を持ち、ラボラトリー法では集団作りへの学習者たちの参加を強調する(自分たちで集団を作るので、成員性が重要になる)。こうした中で、学習者の内に変化を誘導する不調和が生じてくる。それはラボラトリーの学習集団が持つ標準の要求と他の成員性が持つ要求の間に存する不調和であり、これはメンバーの現実の集団、準拠集団との標準の違いから生じる。
トレーナーはラボラトリーが促進するこうした葛藤に、学習者たちが直面するようはげましを与える。また学習者たちが葛藤を総合的に解決する方法を探し求める際に、葛藤を生の状態に保っておくため、情緒的支持と知的支持を与え、学習者が早急に葛藤を拒否するのを思いとどまらせようとする。
ラボラトリーでは学習集団と、別の目的をもった諸集団との標準の差による葛藤が発生するが、この際ラボラトリーの非現実性、職場集団の持つ現実性が強調され「ラボラトリーの外では役立たない!!」と考える参加者がある。しかし、標準の矛盾に直面することはラボラトリー学習を可能にしている諸条件についての生の知識を入手することであり、これは他の集団でも活用可能であり、学習転移が可能である。
ところで、集団心理治療者のクライアントとラボラトリー・トレーナーのクライアントの違いだが、前者は患者であり意味ある関係において、普通以下の異常な形でしか機能しえない。集団心理治療の目標は、彼らを正常な機能に到達、回復させることにある。ラボラトリーのクライアントは一つの集団であり、トレーナーの基本的関係は成員すべてに対して、一つの効果的な学習環境となるべく努力している集団に対し、コンサルタントとしての関係に立つことにある。中心的課題は集団が個人の学習だけではなく、共通の学習をも支えてゆけるように、より適切な機能を発揮できるように集団と共に活動することにある。
五、アクション・リサーチと科学的方法論
ラボラトリー法の提唱者は、リサーチを学習結果に到達するための一つの過程とみなした。つまりリサーチとは、知識のフロンティアに自らいどんで、そこでの事象に知的統制を試みる一つの学習過程である。言い換えればリサーチャーが学習しなければならない問題を明確にし、これに関連のある学習を発見し、検証するための方法を工夫していくことに、自ら率先して当たるところの学習過程なのである。
学習場面は、自分自身の問題や他者との関係に関する諸問題を明確化するために設定される。つまり問題に対する解答は与えられていない。資源は問題についての思考を助ける概念的道具の形で、さらにフィードバックの過程および、「検証」過程の一部として提供される。さらに合意による妥当化の方法によって、到達した合意をテストする過程や合意を形成するにいたる思考、コミュニケーションの質は集団によって絶えず批判され、吟味される。集団による探求が奨励される。多少とも統制された問題事態を処理する方法がいくつかある場合、それらの効果は集められた資料に基づいて評価される。
(3)集団(グループ)観
『感受性訓練』では、私たちが集団に参加することと、自己の自主的・自律的な活動との間には必然的な対立はないとする。もちろん対立は起こるし、団体の力は個人の発展を阻害することもある。その中で、Tグループの目的は、個人としてのユニークな成長を促し、同時に集団の協力者としての成長をうながすために、集団の諸力を動員することにある。
現代文化における自然科学と技術の圧力の中で、個人と集団の統一性と健康性を達成し、かつ維持していくために創造的、かつ協調的適応力が不可欠であり、集団こそ、個人と社会構造との関係を連結する絆であると考えられる。つまり集団とは、次の目的の媒体となる。
一、人間的完成、自分自身・自己の生活の社会的条件に対する深い理解、自己変容、その生活の環境変容についてよりいっそう有効な計画を立て達成する。
二、個人の生活が準拠しているより大きな社会構造の変容の促進
そしてラボラトリーは、この2つの目的にかなうような集団形成を実験的に学習していく場所として計画され、ラボラトリー以外の生活現場に拡大適用できるようになるためのトレーニングであると考えられた。