その後、ラボラトリーには臨床心理学者や精神医学の専門家が加わり、臨床的な傾向が強まり、グループ内の対人的なプロセスにトレーナーの関心が向いたとされる。スタッフやトレーナーの強調点の置き方によって、「グループ中心」、「対人関係中心」のラボラトリーが意識されたのである。
また1950年代後半、NTLはアメリカ赤十字奉仕団、アメリカ聖公会、エッソ石油会社などに対してラボラトリートレーニングを行う支援を行った。特にアメリカ聖公会での組織的な実施は1956年から始まったが、それを推進したのが1953年にNTLのTグループをベセルで受けた聖公会のDavid Hunterであった。清里の清泉寮にTグループのためのハンターホールが建てられているように、その後彼は日本へのラボラトリーの導入に大きな役割を担うことになった。そして60年代に入ると、大学教育や産業界において、ラボラトリートレーニングが多く行われるようになった。
同時にトレーニングにも様々なバリエーションが生まれた。例えば西海岸のUCLAでは正常者に対する治療としてグループプロセスの学習を強調せず、個人の感受性やパーソナリティを発達させることに主眼を置いた感受性訓練(ST Sensitivity Training)が発達した。これは後にマサリックによって日本の産業界に導入されることとなる。
そのアメリカでは構成的な実習集が出版され、そのハンドブックが便利さなどから企業などで多く使われるようになっていった。またラボラトリーにおける個人の変革をベースとして組織・社会を変革するというアプローチに限界を感じたNTLメンバーは、アクション・リサーチのモデルをベースとしていわゆる組織開発のパイオニアとしてその理論や手法を開発していった。
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