ラボラトリーに影響を与えた人々(6)JICE草創期

 

 JICEの初代所長を務めた菅円吉(1967)は「関係の神学」の序文に次のように述べている。「関係が実在だということだ。個人の人間というのは抽象にすぎない。人間は他人との関係の中において実在する。『我は汝によってある』というのはその関係を意味している。この人間関係は聖書的には『隣人愛』の問題となる。関係が実在であるならば、究極的実在である神も関係でなくてはならない。」これはキリスト教のものの考え方は、実体概念ではなく関係概念の上に成り立つことを意味する。

 

 JICEの実質的な主導者であった柳原(1980)は、自己内の関係に生きる「私」が他者との関係に入り、同じ関係的存在である他者も彼の自己内関係を保ちつつ「私」とかかわる対人関係を大切にする。対人関係がグループに広がり、個と全体の緊張関係を学習して、すでにこれらの関係に実在し活動する超越者との関係に生きることが、キリスト教教育の目的であると述べている。そのためにはこのような人間関係の様態をよりよく理解するための助けとなる諸科学を援用して「私」を「永遠の汝」との正しい関係をもたらすように働きかけることが重要であると主張した。

 

 柳原(1980B)によると聖書は人と神の契約の書であり、キリスト教教育はその実現の社会的過程に生じるものであると述べている。そこでは神と隣人との人格的関係こそ教育であり、教育は関係によって成り立っているとする教育的神学を展開している。

 

 JICE活動を推進したメリット(1962)によるとJICEの主導理念は「対話」である。それはケリグマを実践すること(神との出会い、その対話において成長する信仰の表現)と、コイノニア(交わり、共同的であること)であり、そのためにこそ人間関係の科学とキリスト教教育とが相互依存関係をもつのである。そして教会の使命、交わり、人格の価値を明らかにするはたらきがJICE活動であり、神の働きたまう場における神のみ業への応答であると述べている。さらいに教会が社会と文化の価値に対して、規制の概念に躊躇していることを打破して、行動科学を用いて教会の革新にチャレンジしていく神学的決断と冒険の精神が必要であると述べている。

 

 このようにJICEの教育活動の基礎となった教育の神学は、直覚的で直接の関わりの体験において、隣人とともに覚醒され覚知する関係の理解がある。早坂泰次郎(1967)の言葉を借りれば、トレーニングは人間の関係性を眺めて学ぶことではない。人間を対象化したり、ひとつの機能としてとらえるものでもない。私が「関わりあってあること」(Relatedness)でなくてはならないと述べている。そこにも恵みの方法としての超越者の恩寵を実感しつつあるわれわれであること、その実存の再発見がトレーニングであると言える。

 

 また坂口(2010)は当時のJICEにおいてラボラトリー活動に参加したスタッフたちがいつも議論していたのが、人間存在の意味を追求することと、戦後の民主主義社会建設のリーダーシップ発揮の願いであった。一方、実際の行動は「万燈われを照らして、我を知る」というような西田哲学や鈴木大拙の「禅と精神分析」のような悟りの世界を知る道場のような感覚を持っていた。

 

 こうした議論をしていた背景には、戦中戦後の人間社会の不信の経験と混乱から解放されて、自分自身と対人関係の信頼をいかに形成していくか、また人との連帯と団結をどのように得るかという社会的ニーズがあった。

 

 当時のキリスト教の世界では、伝統的な教会教育や倫理的しつけ教育が中心で激変する社会から乖離した観念論的な教育論が多かった。そうした中、JICEの運動はブーバーの対話思想をなぞらえながら、触れ合い、関わり、相互性の体験、そして「出会い」の出来事としての「愛」の実践力を発揮していった。キリスト教会の交わりを深める「愛」の精神は、生命と生命をつなぐ人間の絆を支える超越者のはたらきが基盤にあると、多くのスタッフは世の中に伝えるミッションを持っていた。ヨハネの手紙1−3−18にあるように「言葉や口先だけではなく、行いを持って誠実に愛し合おう」の聖書の言葉を確かめ合って、活動を展開していった。

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