その中でエリクソンは、主観的な「私」という感覚が、ある種の中心性を保証されるように経験を統合することが、「自我」の持つ機能の1つであると述べています。
私たちはこれによって、「雑多な事象の流れの中で、無能な受難者ではなく有能は実行者になり、活力を奪われた存在ではなく、能動的で自ら動き出す存在であり、辺縁に追いやられた存在ではなく、中心的で包含的な存在であり、圧し潰された存在ではなく、自ら選択する存在であり、混乱し困惑した存在ではなく、ものごとがはっきりと見えている存在であると言う感覚」を得て、自分が安心して存在できることにつながると言います。
同時に私たちは、発達の中で、次第に多くの他者と出会い、その中でこの重要な中心的感覚=「私」を再生していかなければならないこと、つまり相互関係で結ばれたこうした他者との間にリアリティの感覚を共有することで、確固としたものにする必要があることも述べています。これが現実世界への適応なのです。
しかし考えてみると、現代は2つの意味でこうした「私」の確保が難しくなっているように思えます。1つは地球規模で広がる他者、特に例えばイスラム原理主義者のように理解不可能な異質な他者の存在と出会わざるを得ないことです。もう1つは自然科学における革命的進歩がもたらす、既存の支配的な世界像(現実世界の像)の揺らぎです。地球環境の問題などがその典型でしょう。
これはコペルニクス的展開によって、「自分が中心にある」という「私」感覚の秩序が、「世界」の広がりと変容によって脅かされている事態といってもいいかもしれません。
もし私たちが、こうした世界の変容という事態に対応できない時、「私」をという中心性を守るために、防衛機制を働かせるかもしれません。典型的にはこうした世界の変化をみないようにして、従来自分が持っていた狭い世界観に固執することもあるでしょうし、個人の精神的な病の症状が引き起こされるかもしれません。
前者の場合は、自分を守る必要があるため、他の世界観を持つ人への攻撃性が増すでしょう。また後者の場合、社会における精神疾患の割合が増えるでしょう。実際にいま他国や他の宗教、民族に対する攻撃性は増しているように思いますし、厚生労働省のデータでは、精神疾患を持つ人の数は増加しています。
こうした時エリクソンは「全人類的な成熟をかちとる」ことについてふれ、「現れ出ること」「成ること」の重要性を指摘しています。つまり人間の発達において、幼児期などでの課題に固着してしまわないで、発達することが重要なように、人とそして社会が「成るようになっているか」が課題であると考えているのです。
エリクソンの考えから見ると今の社会には、防衛的に狭い世界観の中に、人々を囲い込もうとする防衛機制が働いているように見えるのです。いま私たちの課題は、そうではなくむしろ私たちが「成るようになる」ことを後押しすることではないでしょうか。そしてその「成るようになる」という流れの中に「私」を見出していくことではないかと思います。
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