でもこの感覚をうまく言葉にできない感じがしていたのです。例えばよく第3の目、つまり自分の視点で見る(第1の目)、他者の視点で見る(第2の目)、自他の関係を見る(第3の目)と言われますが、この説明ではその感覚をつかみきれない感じがしていました。
しかし西平直さんの『世阿弥の稽古哲学』の中で紹介されている、世阿弥の「離見の見」という考え方は、腑に落ちるところがあります。
世阿弥は3つの「見る」を説きます。最初は「我見」で、これは自分の意識作用で、「その時、その場(即座)」の当事者の視点です。2つ目は「離見」で我見から離れて、他者(世阿弥では観客)の視点に身を置いて、自分を見ること(自分の後ろ姿を見る)です。
そして「離見の見」とは、もう一度自分の「からだ」を取り戻しながら、こんどは、「離見」を含む自分を見るということです。これによって我見の「その時、その場(即座)」の立脚点から離れ「その時、その場(即座)」を今までの仕方とは違った仕方で体験する視点です。
ところでこの「離見」には「見る」という意識作用から離れること、つまり主客の区別をなくし、対象と一体化する感覚が含まれています。そして矛盾するようですがこの一体化した「私」を見るのが「離見の見」といえるでしょう。
この話を聞いて私には2つの気づきがありました。
1つは「離見」とフロイドのスーパーエゴの関係です。例えば他者の視点で自分を見る中には、「評価的視点」、「批判的視点」が入ることは避けられません。観客は舞い手をいつも「評価的視点」で眺めています。
そしてこうした評価的視点は、社会や親、学校などで意識的、無意識的に教えられた「こうあるべき」からも生まれてきています。例えば男は一生懸命働くのが当たり前という家庭や社会に育つと、何かの理由で職を失った時、平日の昼間にいくところがない自分をとても厳しくみる「離見」が生じかねません。これは社会や親の価値観と一体化しているのです。
私も非常に厳しく自分をこうした評価的視点でみるなあと感じていて、でもこれが行き過ぎると、本当に自分らしく、のびのびふるまうことは難しくなるなあと感じます。言い換えれば「離見」の仕方には人ぞれぞれクセがあるのです。
2つ目は「離見の見」と「いまここ」の関係です。ラボラトリーでは「いまここ」に起きてくる気持ちや想い、感じを大切にするということが言われますが、でもこの表現では「我見」、つまり「わがまま」を大切にするという意味にもとることができます。
しかしラボラトリーでいう「いまここ」は、「その時、その場(即座)」の当事者の視点だけではなく、他者とのかかわりの中で他者の視点も含みこむ「離見の見」でみて、「その時、その場(即座)」に湧いてくるものを大切に生きるということに近いと感じます。
私のラボラトリーの体験に即した言葉に翻訳すると、他者とのかかわりの中で、不完全で罪あると感じる自分をゆるし、それでもなお、いまここで湧いてくる感じや気持ち、想いを大切にしていく。これが「離見の見」の意味なのかなと感じます。
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ぶたぶた (木曜日, 02 4月 2015 17:09)
離見の見と以前に出てきたゼロ地点 何か繋がりがあるように感じます。ちょっと温めて何が出てくるか、或いは来ないか*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*