昨日、消化器内科の受診があった。やはり膵臓の嚢胞病変であり、大きいもので15ミリくらいあるとのことだった。癌マーカーの検査をし、またCTを取ることが決まったが、医者の話ではガンは疑っておらず、嚢胞を一年に一度くらい経過観察するような感じで説明された。
前回検査の結果を自分で調べた結果、膵臓の嚢胞病変があるとわかってから、私なりに色々と覚悟をしてきた。来年があるかどうかわからない中で、どんな時が与えられても平安でいることをねらいにもした。
しかし昨日病院から帰ってから、いろいろな言葉にはつくせない気持ちや感じた、想いが奔流のように湧いてきて、平静でいることが難しい状況が生まれた。また妻に少し当たってしまった感じにもなった。
まず思ったのは、もし医者から癌が疑われ、来年が迎えられるかどうか疑わしいのであれば、こうしたものは湧いてこなかっただろうということだ。これは「ガンは疑っていない。年に一度経過観察をする」という言葉、つまり来年がある可能性が高いという認識から生まれてきたものだ。
それはただ良かったという安心ではない。うまく言い表せないが、この身体の奥深くから湧いてくる、生きたいという根源的な欲求のようなものであり、生も死も今ここで同じに受け入れる万物斉同の考えに対し、それは嫌だと叫び声を上げているような感じだった。
その感じは他の人の下の世話をしている時のような生々しさ、ドロドロしたものを含んでいた。いのちをこの身に持つ身体が、それそのものの存在を主張して、自己の存続に執着しているように感じられた。これが「来年があるかもしれない」という認識の中で、まさに溢れ出てきたのだ。
さらに身体を脅かす危険の中でも、「今ここ」を信頼し平安でいたいと努力することが、こうした生々しさやドロドロした感じに蓋をする作用となっていたようにも感じる。恐れや根源的欲求を含んだ生々しさやドロドロした感じが、平静の心を失わせることを私は嫌がっていたのだなと感じる。
しかし今思うと、こうした中でも私は一番奥底で「今ここ」を信頼していたと思う。また身体が自己の存続を求めて生々しい叫び声を上げることは、私の平静さを失わせることになるかもしれないが、いのちの一番深い真実に近い、とても大切なものであるように感じる。
私のしたいことはこうした奔流のような気持ち、想いに蓋をして平静を保つことではないだろう。むしろこうした言葉にならない気持ちや感じの洪水の中で、それも与えられた大切な時であると捉え、でもそのさらに底流にある「今ここ」のいのちの流れを感じ取り、そこに信頼して、もっとも奥の部分で平安の中にいることだと思う。