昨日の夜中に目が覚めて、自分の来し方をふと考える時間があった。いろいろなことを思い出しながら、自分って真面目すぎてつまらないなと感じたり、自分の過去の人との関わり方が本当に良かったのかと考えさせられた。そしてやるせないような気持ちが生まれ、自分に否定的な感じが生まれてきた。
こうした「自分って真面目すぎてつまらない」「自分の関わり方は誤っているのでは」などという解釈や評価は常に過去の自分に向けられる。そして私自身が何か失敗者として決定づけられたように私自身に思わせる。例えば「真面目すぎてつまらない人」という風に私を何かの枠(檻)に閉じ込めてしまおうとする。
しかし今朝起きてふとした瞬間、「それでも私には今ここが与えられている」という感じが起きてきた。そしてそのことが、私に希望の光として差し込んできた。それはこのような事だ。つまり過去のある関わりを今振り返った時、「自分の関わり方は誤っていたのでは」と感じることは確かにあった。
しかし私はそれを機械的に繰り返す存在ではない。同じような状況が起きた時、私は新たに与えられる「今ここ」の気持ちや想い、感じを頼りにして新たにその人や状況と関わることができる。だから私は「関わり方の下手な人」ということに未来永劫決定づけられることはないのだということだ。
しかも「自分の関わり方は誤っていたのでは」と感じた過去の出来事においても、私は「今ここ」の気持ちや想い、感じをできるだけ大切にして関わってきた。その時は、そこには他の選択肢はなかったのだ。だからこんな風に自分を否定的に感じ、評価する必要はどこにもない。
今感じているのは、まず第一に自分が自分を解釈、評価する、その仕方は時に恣意的であり、不完全なものだということだ。しかし、生きている中で自分を解釈、評価することは避けられない。ただその時でも、私はそれによってどんな枠にも閉じ込められはしない、人生の失敗者などと決定づけられはしないことを忘れないでいたい。
今ここを生きるということは、こうした過去の解釈や評価によって自分を自分で作った檻の中に閉じ込めないことだ。今ここはまさに新しい時として与えられる。この今の私は新たな「今ここ」に応答して、新たな私として生きることができる。