60歳を目前にして、今改めて自分が生きていくための指針・ベースについて学び問いたい気持ちが強くなっている。年齢的にも、身体的にも、死を意識せざるを得ない状況の中で、これから私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベースを再確認したい気持ちが生まれているのだ。
このように私が再確認したい指針・ベースには、次のものが含まれている。
・何のために生きるのか(生きる使命・生きる意味・死の意味)
・生きる上で大切なものとは何なのか(価値観、行動指針)
・どのように生きるのか(生き方)
つまり私の求めているベースとは単なる生きる意味、価値観、生き方ではない。それらが密接に組み合わされた総体、つまり自分自身にこうしたベースを生きることが大切であることを確信させ、その大切にしていることを実現するために、いかに現実状況の中で生きていくかについて導いてくれるものである。
それは「人間どう生きるべきか」といった問いに答えを与えてくれる客観的な真理や科学的知識を得たいということではない。これは人間一般の話ではなく、この「私」が生きるための指針なのだ。かつてキルケゴールが「私がそのために生き、かつ死んで悔いないような実存的真理」と呼んだものに近いと思う。
このベースは、別の観点からすると「私自身が生きるための知の体系」と呼べる側面もあるかもしれない。それはまさに私がこの世界を生きていく時に様々な選択の指針となり、私を導いてくれるものである。それがあるがゆえにこの世という大海原を安心して渡っていけるようなものなのだ。
ところで人間は皆、自然に生まれ、生き、死んでいくのだから、こうした「私が生きるための知」がなくても困らないのではないか。いや、私は生きる上で大変な困難に直面すると思う。それはティリッヒが指摘したように、この世界には「生きる勇気」を奪う不安や脅かしがあるからだ。
例えば最近私はある慢性病にかかっていることがわかり、その検査の過程で万が一のこと、つまり死の存在に直面せざるを得なかった。「私を生きるための知」がなければ、自分が死によって無に帰するという恐怖とそれに伴う不安に対処することは難しいように感じる。
考えてみると病気でなくても死はいつ襲ってくるかわからない。死への恐怖やそれに伴う不安は、日常の中では巧みに「見ない」ようにできる。しかし決してなくなることはなく、時限爆弾のように人生に現れてくる。「私を生きるための知」というベースなしに、絶望や虚無に陥ることなく生きていくのは難しい。
また人生の中で、例えば一人で寂しく老いて死んでいくような運命が待ち受けているかもしれないという不安は拭えない。こうした不安は無力感を生む。突き詰めて考えた時、この世界には本当に意味があるのかという問いも生じてくる。これに答えられないと空虚さが人生を満たしてしまう。
さらにこの世界で自分が悪しきものと感じられることもある。それは罪責という形で私を脅かす。だから私はこうした不安や脅かしの中であってもなお、絶望や無力感、虚無に陥らず、自暴自棄にもならないで人生を送るための、生きる勇気を与えてくれるベースが必要と感じている。