前に書いたように今の私には、これから何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、つまり「私を生きる知」が必要になってきている。しかしこうした知は多分客観的、科学的な方法では得られないだろう。それは人間一般ではなく、この「私」が生きるための知だからだ。
それでは私はどのようにしてこうした「知」を学び問うことができるのだろうか。それにはまずドナルド・ショーンが『専門家の知恵』という本の中で述べた知恵を獲得する方法が参考になると思う。彼は科学的知識を技術に転用し、現実の問題を解決していく方法論を技術的合理性モデルと呼んだ。
この方法は医学や工学という分野で大成功をおさめた。その結果、科学に基づく技術を政治や社会といった分野にも使用することで問題解決が可能であるという考えが広まっていったとする。しかしこのモデルは、社会的な目標を達成し、問題を解決することはできなかった。
この現実の世界には、複雑性、不確実性、不安定さ、独自性、価値葛藤という現象がある。その現実の実践の中で、技術的合理性モデルには限界があったからである。そして「私」がこの現実の世界を生きる際にも、同じような現象に直面する。私は科学的・技術的方法では生きることはできない。
こうした中、ショーンは、実際に不確実な状況の中で有効に働いている様々な「専門家」を分析し、彼らが無意識ながらも実践のなかで、状況に対応するための「知」を生み出していることに着目した。その「知」の探求のプロセスが「行為の中の省察」である。
例えば技術的合理性のモデルでは、「なんのために」が問われることはない。与えられた目的のために「どのように」技術を適用するかだけが問われる。しかし社会にかかわる現実状況には価値葛藤が存在し、まず実践者は「専門家」として今の状況を分析し、それに枠組みを与える必要がでてくる。
つまり実践を行う人は、すでにある科学や技術などの一般的知識を活用しつつ、その上で行為の中で生じる体験を省察し、自分の向かいあう状況の中で「何のために」「何を大事に」「どのように」行為すればいいのかついて新たなフレームワーク、「知」を構成しながら実践していく。
もし私が「私を生きる知」を得たいなら、「私を生きる専門家」になる必要がある。つまりこの私を生きるという現実状況の中で、「省察」によって「何のために」「何を大事に」していくかのフレームワークを作り、その枠組みの中で、さらに「省察」することで「どのように」生きればいいのかを見いだしていく必要がある。
こうした観点から、私にとって真に意味のある生きるためのベースは、次のような方法論で生み出していけると考えられる。まず現実状況の中で私自身の生きてきた体験を「内省」することである。つまり体験をふりかえる中から「私が生きるための知」を見出すことである。
また先人たちが築き上げた哲学や思想、理論といった一般的知識や先人たちが自身の体験から抽出した「その人が生きた知」も役立つと考えられる。こうしたすでにある「知」と私自身の体験をつきあわせることで、「何のために」「何を大事に」生きればいいのかのフレームワークはよりブラッシュアップされるだろう。
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