私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、「私が生きる知」は、私がこの世界とその中での私(またはその関わりの歴史的流れ)をどのように捉えるかに関わっている。だからこの「知」は、世界と私について、私がどのように「物語るか」と関わっていると言えるだろう。
それではどのような物語によって、私は他ならぬこの私がそのために生き、死んで良いと感じるようなベースを得られるだろうか。それはまず自分の生きる意味や存在意義を確かにしてくれる物語であるだろう。それは世界や他者に自分が貢献できる物語でもあるだろう。
しかしこうした物語には危険もある。それは共同体が与えてくれる物語を鵜呑みにしてしまう過ちに陥る可能性が出てくることだ。例えば私がナチス時代のドイツに生まれ、その世界観、ゲルマン民族だけが至上でありそのための世界建設のために戦う必要がある、を教えられ身につけたとする。
その私がナチス党員になり親衛隊に入れたとしたら、私は誇りに感じ、生きる意味や存在意義を見出しただろう。そして恐らくユダヤ人を迫害することを必要なことと感じ、命じられれば実行したかもしれない。しかし今この場で生きる私にとってはもちろんそうではない。
このように時代や場所を少し離れて眺めると、共同体の物語はあまりにも多様だ。ナチスの描く世界、キリスト教の描く世界、侍の世界、現代日本の国が描く世界・・。それぞれの世界はあまりにも違う。そしてそれは時に偏狭であり、外部の人に残虐でもある。私の求める物語はこうしたものではない。