これまで書いてきたように物語は可塑的であり、悪意のある共同体によって悪用される危険を持つ。『ホモデウス』の中でハラリが述べたように、自己も含めた世界は全てフィクション(虚構)の物語であると捉える人もいる。それではこうした物語は全て捨て去るべきものなのだろうか。
本当に世界や自己という物語が全て、虚構に過ぎないのであれば、生には何の意味も、価値もなくなるだろう。歴史は編纂できず、どこに向けて歩みを進めることもできなくなる。私が何のために、何を大切にして、どのように生きていくのかのベース、つまり「私を生きる知」を学び問うのも絶望的となる。
ところで先日私は、生きるための知を理解するために「身体の知」ということが大切になることを書いた。つまり私には一つの経験の中で今ここに起きてくるフェルトセンスを身体の知を使って自己概念に取り入れるということが可能である。このことは何を意味するのであろうか。
それは物語には二種類あるということを示しているように思われる。経験の中で生まれるフェルトセンスは実際に今ここに存在している。私はその実在を感じることができる。言葉やイメージ(象徴)として象徴化する際も、その実在に触れて、「それは違う」、「そうそう」と区分けすることができる。
そしてその象徴化作用の中でその経験は受容され、自己概念は変容していく。これはつまり自己の物語が変容していくということだ。ところでここにおける自己の物語は、常に今ここに存在する実在に裏打ちされている。つまり誰かの恣意によっては語ることのできない言葉であり、物語なのだ。
一方私が起きる経験(フェルトセンス)を拒否し、今までの自己概念にしがみつく時、その私についての物語には何の土台もない。そこにあるのは実在に裏打ちされない空虚な言葉であり、物語である。それは悪意のある人によって恣意的に作られうる。そこに取り込まれると他者からマインドコントロールされる自己になってしまう。
世界についても同じだ。もしそれが空虚な言葉で語られるなら、それは全く虚構であり、ただの言葉に過ぎない。しかしもし私の中で今ここにあるという実在に裏打ちされた言葉で語られる物語であるのなら、それは虚構ではない。私にとってこの2つの違いを見分けることは、生きる上でとても大切なこととなる。