昔銀行員であることを辞めた時、名刺を渡せないことをショックに感じたことがある。私はその時、「・・銀行の博野」ということに価値を感じ、それが「私」であると信じていたのだと思う。私は自分が所属している組織、過去の経験、行動を認識し、「私」を銀行員、○○大学卒・・・などととらえていたのである。
つまり私を何かを持っている私、つまり「何者か」ととらえていた。しかし前述の「水圧を感じる体験」が、自分にも他の人にも日常的に生じているごく普通の体験であることがわかってきてから、その「私」のとらえ方はかわっていったように思う。自己の捉え方が変えられたのである。
この「水圧」の具体的な形としての気持ち、想い、体の感じは、私の意志とはかかわりのないところで今ここに生まれてくる。またある状況を打開するのに必要な「水圧」はいつも私に与えられるわけではない。それは他の誰かに与えられることもある。またいつ生じるか予測もつかないし、望む時に与えられるわけでもない。
こうした体験においては、自分のことを例えば「管理職」とか「研修のスタッフ」という風に、私がもっているものでとらえることは、ほとんど意味がない。むしろそれは自意識過剰をもたらし、例えば自分がグループをなんとかせねばといった間違った方向に私たちを導きかねない。
こうした自己概念は「今ここ」で「水圧」を感じ、従うことを阻害しかねない。こうして私は、何かを持っている私、「何者か」であることが自分であるとは考えないようになった。これは自己についての物語にすぎず、私そのものではない。それでは私とは一体何なのか。
考えてみると今ここの実在の流れ、具体的には、何かの気持ち、想い、体の感じは、私の意志を超え、私に与えられる。そしてその「水圧」が私や私たちを導き、関係やグループを成長させる。つまりそれを大切にすることが、自分も他者も大切にすることになる。
そうであるなら、その時々に「今ここ」で生まれてくるもの、例えば感じや気持ち、想いこそ、私ではないだろうか。つまり私とは、私についての物語や自己概念ではない。むしろそれを変容させる力を持つ「今ここ」こそ、真に実在するありのままの私だと捉えることができるだろう。
しかしこうした私は、自らの意志では生み出すことはできない。私とは「今ここ」の流れの中で刻一刻と与えられている存在であり、自分を超えたものによって生み出されている。私はこのように「自己」を徹底した受動性の中で理解するようになっている。