『十牛図〜自己の現象学』(上田閑照)を読んで3

私が十牛図で好きなのは、第六図「騎牛帰家」である。第四図であれほど緊張感を持って引きあった手綱は手放され、牛と人は一体になっている。人は牛に歩みを任せ、道をそれることをいささかも恐れていない。牛を信じ、委ねきっている。そしてその状態を賛美するように音楽を奏でる。

 

●昨年末に検査入院した時、私はふとこの第六図のことを思い出して励まされ、力を得ることができたことがある。今私はベッドから動くこともできず、ただ呼吸しているだけだが、それでも「今ここ」は刻一刻と流れ、私を導いてくれる。私はその流れを心から信頼し、委ねることができる。

 

●おそらく入院し、点滴に繋がれているという特殊な状況だったので、日頃よりも自分の「身体」を感じやすくなっていたのだろう。私には「今ここ」の実在の流れに委ねることが、「牛にまたがり一体として動く感覚」に非常に近く感じられた。そのためこの図は私にとってとても慰めとなったのである。

 

●この図はまた私にとって、有限性(この身体)が無限性(この身体を超えたもの)に出会った時にどうしたら良いかを示唆してくれるものでもある。「今ここ」の実在の流れは生成を生み出すが、この生成には身体が変化していくこと、つまり死も含まれている。こうした死と生を超えたものに直面することは私にとっては非常な重荷になる。

 

●この重荷は私をこの世における安心や暖かさの中に止まらせてくれない。私は怖さや緊張、冷厳さ、ズンとした重さを感じる。それでも私はこの十字架を一人で背負うしかない。しかし仕方なくそれを背負った時、私は恐怖や苦しみを乗り越え、牛の背にまたがり、委ねることができる。

 

●日常において私はこの十字架を背負いきれず右往左往している。今もまた新型コロナウィルスという危機によって、この身体という有限性は脅かされ、私は心騒いでいる。しかしこうした危機だからこそ、牛にまたがり心を安らかにして、今できることに集中していたいと感じている。

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