●「なぜ」「何のために」という問いには、鋭利な刃物のようなところがあるなと感じている。とても大切で役立つ部分と、人の生きる力を削いでしまうようなマイナスの部分が同居しているように思えるからだ。例えば「なぜ」そうなるかを考えさせれば、子どもの論理的思考を伸ばすことが可能となる。
●また私が何かに取り組む時も、「何のため」にそれをするのかを意識することが大切だ。進路を探る際も、「なぜ」その道に進みたいのかをできるだけ考えることは必要だろう。また組織においても「何のため」に活動するかのミッションがないと人を引き付けることはできない。
●しかし一方、「なぜ」が連発されると、うまく答えることができず腹が立ったり、苛立ったりすることも事実だ。自分が失敗した行動について何回も「なぜ」という問いを畳み掛けられると、うまく答えられなくなるばかりでなく、自分が責められているような気がしてくる。
●それはたぶんこの問いには、既存の世界の前提や自分自身を見直し、時には崩してしまって、新しくする力があるからだと思う。例えば教育指導要領では学校で人を育てる際の教育目標として、知識・技能、思考力・判断力、学びに向かう力などが言われている。
●しかしこれらの目標はすべて「何を」学ぶかについてのもので、「何のために」は問われていない。言葉は悪いが、こうした力は犯罪集団においても必要とされる。つまり「何のため」にこの力を身につけさせるのかを問うた時、初めて本当にどんな人を育てたいのかが明確になってくる。
●このように「なぜ」「何のため」は、日常問われることのない世界の既存の前提を掘り起こし、目の前に晒し、時にはそれを崩して生成を生み出す力を持つ。しかしだからこそ私はこの問いを封印すること覚えてきたようにも思う。例えば受験勉強中に、「何故」を問うと、勉強どころではなくなってしまうからだ。