●前に「なぜ」「何のため」という問いが、既存の世界の前提や自分自身を新しくする力を持つと同時に人を断罪する力を持つことを書いた。特にこの問いが「生きること」に向くとそうした傾向が強まる。「生きる」ということに値するだけの「何のため」を持っていない自分に気づかされるからだ。
●こうした中で、私には「何故なし」という考え方が大いに救いになるように思えている。前に描いたことと重複するが触れておくと、「十牛図」の著者の上田閑照は西田哲学の考えを取り入れ、もともと「自己」というあり方が場所的であると指摘していた。
●例えば「父親としての自覚」が生まれるということは、自分をでて、家族という場に自分を見出すことから生まれる。このように場に連関して自分を捉えることは、自分がどのような世界に住んでいるかということであり、そこに「なぜ」「何のため」という意味が生まれてくる。
●ただ親子の問題はその底に人間の問題を含む。そうすると今度は一人の人間、死すべきものと死すべきものとの関わりという場から「自己」を見出す必要がでてくる。こうして次々に底の底まで探っていくと最後にあらゆる区分けや対立を超えた場、つまりすべての形を超えた場に至る。
●そこでは「なぜ」を問い続けた意味連関の最後の底が探られる。つまり「何故生きるのか?」の答えとしての「役に立つため」に対し、また「何故」を問い続けていく。こうした底まで至った時、私は「なぜ」を問う必要がなくなる。そこには区分けや対立を超えた「今ここ」の流れがあるだけだからだ。
●ここで私は旧約聖書にある「ヨブ記」を思い出す。一点の罪も犯さないヨブは、神に試みを与えられる。ヨブは自分の正しさを主張し、「なぜ」こうした仕打ちを与えられたのかを徹底的に問う。あらゆる答えに納得せずなお「何故」を問うヨブの面前に神は現れ、その「存在」を感じてヨブは口を閉じる。
●私もまた今ここに生成の流れが「ある」のを感じる。だから今ここに与えられた時を生き、そして最後には死んでいくことができる。「何故」という理由がなくても、「今ここ」の実在に身を委ね、そこから生まれる想いを大切にしてこの世界を過ごしていいのだということは私に大きな喜びと安心を与えてくれる。
●私は、この「今ここの実在の流れ」を感じその流れに従うことによって、自分への断罪や無意味さに飲み込まれることなく生きることができる。私は思うのだが、もしこの「今ここ」が感じられなければ、今の世界や自分を崩す可能性のある「何故」「何のため」は問うことができないように思える。