ながれと形3〜「今ここの実在の流れ」

●これまで「動的平衡」の考え方と『流れとかたち』から「私」について考えてきた。私は身体という形を持っている。この身体は分子の流れの動的平衡によって生まれる。そして形は「そこに流れるものをより良く流すデザインへと変化する」。だから動的平衡は何かをより良く流すために生じる形と言える。

 

●それでは私たちの身体は何を流すために形作られたのだろうか?『流れとかたち』の著者が言うように、人間など動物の形は確かに、質量をより良く移動させる方向に進化してきたことは間違いない。また情報やアイディアといったものをより良く流すデザインとも言えるだろう。しかしそれだけだろうか?

 

●一つ確かだと思えるのは、「私」とは私の身体だけではないと言うことだ。この身体はそこに流れるものと一体になって初めて「私」になる。だとするなら、私を私であらしめるもの、つまり私の中から湧いてくる気持ちや思い、感じ、直感、イメージなどは「私の身体を流れるもの」と言えるだろう。

 

●私が他の人の一言でインスパイアされ新しい何かを発見する時、私の中では何かが流れている。何かに怒りを覚えている時、私の中では何かが流れている。このコロナウィルスによって起こる社会の動きを見て何かをしたいという意志が湧いてくる時、私の中では何かが流れている。

 

●心理療法などで用いられるフォーカシングには体験過程という考え方がある。そこでは自分の身体には自分では意識していない流れがあるとする。そしてその流れに焦点を当てると、つまり刻一刻変化している身体の感じに焦点を当てると、その流れを意識化することができる。

 

●具体的には、今まさに生まれている身体の感じを感じ取れるようになる。そしてその感じにフォーカスして、一番近い言葉を探すと「重い」、「ワクワク」などのように気持ちや思い、感じ、直感、イメージなどを言語化できる。そしてそれがその感じに対応する私の動きを生み出す。これが「今ここの実在の流れ」と言っていいものだ。

 

●このブログで私は生きるベースとして、この「今ここの実在の流れ」を挙げてきた。そして「今ここ」は言葉で直接説明することはできないし、目で見ることもできない。しかしそれはこの身体の中でいつも流れている。それはいのちの流れと言ってもいいのではないだろうか。

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