●先日、歴史学者のファーガソンがこれからの社会を語る番組を見ていて、とても面白い考え方を提示していた。それは未来に悲惨な結果をもたらす災厄があるということはわかっているが、それがどのくらいの確率で起こるかわからない時、どのように対応するかという話だ。
●例えばこれからも今のような感染症が起きる確率はあるが、一方でそれは幸運にも起きないかもしれない。事前に対策するとコストがかかる。無駄になる可能性もある。たとえその災厄が実際に起き対策によって破滅を回避できたとしても、「起きなかった災厄」は人々には理解されないので感謝されない。
●ファーガソンはアメリカの元国務長官であるキッシンジャーを分析する中でこの考えを得たと言う。外交においてはその結果が確実でない事柄について災厄が最小限となる決定を下す必要があるが、それを支持・賞賛してくれることは少ない。彼はこの問題を「外交決定における推定の問題」と呼んだ。
●私はこの話に力強く惹きつけられるものを感じた。このテーマは外交に限るものではないからだ。むしろ未来の災厄を防ぐために、支持・賞賛を求めないで行動する人々すべてに関わると感じる。そして私にとっても生きる上で大切なものが含まれているように思える。
●実際このテーマは多くの物語のモチーフにもなっている。だから人類共通のものと言えるだろう。その一つが『指輪物語』だ。トールキンの描いたこの壮大な物語では、邪悪な力が詰まった「一つの指輪」が描かれる。この指輪が冥王サウロンに渡ってしまうと世界は悪に支配され巨大な災厄が来る。
●小さい人であるホビット族のフロドはたまたま指輪の所持者となり、仕方なしに仲間と共に指輪を捨てに行く。多くの労苦と英雄的行動によって指輪は破壊され世界は救われる。しかしフロド自身は指輪の魔力に侵され、取り返しのつかない傷を負う。そして彼の救世の行為を知っている者はほとんどいない。
●西郷隆盛に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」という言葉がある。この時代には身命を投げ出し、未来を生きる人々の災厄を防いだ、多くの無名の人々の物語があったに違いない。
●またインディアンの祖先を描いた『一万年の旅路』という物語がある。彼らは「子どもの子どもの子ども」が生きるためによりよい土地を探し、アジアから遥か北アメリカまで移動する。自分たちが今暮らせる土地を見つけても、増えた子孫には十分ではないと判断した時、彼らは移動することを選択した。
●こうした物語に共通するのは「未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動を、今ここで自分の担う荷物として受けいれる人々」の存在である。彼らはいにしえに、まだ見ぬ未来の私たちが災厄にあうことを予見し、その苦しみに共感し、自己犠牲を払ってそれを防いでくれた。彼らは未来を生かす人々なのだ。