●私はこの頃、新型コロナウィルスに対するリスクへの感度は一人一人違うなあと実感している。身近なところでは家族内での違いがある。4人家族の我が家では86歳になる母がもっとも大胆だ。あまり気にせず公共交通機関にも乗るし、外食もする。
●他の3人は母に感染させないように不要不急のリスクを避けた生活を続けている。だからリスク感度の低い母にがっかりしたりする。こうした違いは意外に根が深く、時に葛藤が起きるので我が家ではその都度家族会議を持っている。概ねうまくいっているが母からすれば、私たちは臆病に見えるようだ。
●リスクへの感度は一人一人違っている。「怖さ」という感情への対処は個人差が大きい。情報の差もある。私はコロナについての新たな知見を日々集めているので、その怖さとリスクを実感できるし、第二波があることも確実視している。母はそこまでは情報処理ができていない。
●また個人差だけでなく、家族構成やライフステージによっても変わってくる。高齢者や基礎疾患を持った人が家族にいる場合、妊娠中や小さい子供がいる家族ではリスクに対し敏感にならざるを得ない。身の回りの友人、知人を見ていても、高リスクの家族がいない人はより大胆に行動しているように見える。
●こうした中、怖いなと思うのは同調性の圧力である。もっと正直に言えば、私はこうしたリスク感度の差を無視して、同じであることを求める動きに違和感を感じている。例えば少し前まで、微熱や軽い咳、下痢など少しでも体調が悪ければ学校や職場を休むことが大切だと言われてきた。
●しかし今鼻風邪程度で休める雰囲気が再びなくなってきているように感じる。例えば授業で生徒が待っているのに先生として休めない、大切な仕事を放り出して会社を休めないという同調圧力があるように思える。この中でリスク感度の高い私などはもし他の人にコロナを感染させてしまったらと怖く感じる。
●ラッシュ時の満員電車での通勤・通学はもともと嫌なものだった。しかしコロナの脅威のある今、リスク感度の高い人は毎日真に怖い思いをしている。そこに共感がない組織が通勤・通学を当たり前に求めると、働く人、学生は道具のように扱われている感じを抱いて心が離れてしまう。
●逆にマスク着用、社会的距離などの「新しい生活様式」が押し付けられることにも違和感を感じる。私の友人が言っていたのだが、末期患者の看取りをしていると社会的距離があることで相手の言葉を聞き取れないことがある。またマスクをしていると、相手に大切な言葉を伝えることができないこともある。
●一般論としてよく日本は同調性の高い社会であると言われてきた。そこには良いところもあるのだろうと思う。しかしコロナへのリスク感度の違いには、そのベースに恐れという感情があり、本当に大切な人を守りたいという想いがある。だから同調圧力はその集団と個人の中に非常に大きな葛藤を生み出す。
●私とって大切なことはコロナ前の当たり前に戻ることではない。自分の中の恐れと大切な人を守りたいという想いに向き合い、その中でどのように人と関わり生活するかを自分で決めることだ。そしてこうした私を理解し、認め、支えてくれる人々や集団とより強固な関係を築いていきたいと思っている。