半年ぶりの体験学習で思ったこと

●コロナ禍のなかで、私が関わるラボラトリー方式の体験学習の場はほとんど中止になってきた。組織研修も、Tグループを中心とするラボラトリーもである。この体験学習ではいわゆる3密を避けられないからだ。しかし先週の金曜日、久しぶりに毎年行っている看護マネジメントの研修を行うことができた。

 

●実施前には研修の担当者とずいぶんコミュニケーションをとって、グループワークをしないプログラムを検討したりして、感染防止に心を砕いた。しかし最終的に研修の必要性と今の感染状況を勘案して、グループの人数を少し減らす他は、グループワークも含めた通常通りの体験学習の学びを実施した。

 

●始まる前、感染防止に注意しなければならない立場の人は、グループワークに対する抵抗感があるかなと思っていた。そして希望者はグループに入らず観察役になってもらおうと思って、その準備もしていた。しかし蓋を開けると、そうした希望はなく全員がグループワークに参加された。

 

●やってみて驚いたのは、多くの人がグループでの実習を心から楽しんでいるように見えたことだ。何の変哲もない課題解決の実習だったのだが、身を寄せ合い、心から笑い、気持ちや意見のやりとりをする。こうした何気ない関わりがとても嬉しそうだったし、もっと言えば彼らを癒しているようにさえ見えた。

 

●後で聞いてみると、こうした研修を再開したのもごく最近のことらしい。恐らく職場では感染防止のために関わりに神経を使っておられるだろう。そして私は思った。こうした人と人とが身体をその場において対面で関わる時、私たちにとって何か不可欠な「何か」をやりとりしているのではないだろうか、と。

 

●コロナ以前は普段の関わりでその「何か」をやりとりできていたのに、コロナ禍のなか感染防止を徹底する関わりが求められ、その「何か」は徐々に欠乏してきていたのだ。だからこの実習での関わりの中で久しぶりにその「何か」をやりとりできて、あれほど楽しみ、満足されたのではないだろうか。

 

●そして私はその「何か」とは、私の言葉で言う「今ここ」なのではないかと思う。隣の人の顔色を見てふと大丈夫かなという想いが湧く。それはケアする視線を生む。ただ相手の息遣いを見て声はかけない。しかし相手の人はそれを察知して、この場は受け入れられる場だなと感じる。

 

●「今ここ」とはこうした言葉でないものも含めた気持ち、思い、感じである。身体をこの場に置いた関わりでは、こうした「今ここ」のやりとりが自然に半分無意識に行われている。そしてこのやりとりの中で、関わる満足感や充足感、相手への信頼などが生まれてくる。

 

●私の中にはこの研修によってこうした「今ここ」がよりよく流れたというイメージが与えられている。自分の中でもその場にいて起きてくる感じや想いがたくさんあり、それを受け取ってもらえた。関わりの中で、この「今ここ」がよりよくやりとりされると、そこには深い喜びが感じられるように思う。

 

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