人と共にいるということ

●コロナ禍のなかで、「人と共にいること」の意味が少しだけわかったように感じている。これまでは人と共にいるというのは、いわば当たり前の状態だったように思う。家庭でも職場でも友人と会うときも、普通に人と共にいて、いろいろなことをしてきていた。

 

●しかしコロナによって状況は一変した。私の場合、仕事はリモートが増えたし、研修を受けるのもリモートになった。そして9月・10月に少しだけ感染リスクのある仕事をしたので、万一感染していた時の用心のために、2週間家族に会わないように自主隔離をした。

 

●このように「人と共にいること」が欠如したことで、かえってこれまで見えなかったものが感じられるようになった気がする。まず家庭内での自主隔離中、食事などはラインを使って「一緒に」食べていた。ある程度コミュニケーションをすることも可能だった。

 

●それは助かったのだが、すぐに感じたのは、リモートだと無言でいると「一緒にいる」感じがしない。だからすぐに他のことをしてしまう。ラインをつなぎっぱなしにする気もしない。一方自主隔離が明けたあと、家族と一緒に居間にいると、何もしないでも一緒に「いる」ことができることに気づいた。

 

●また10月に南山大学の人間関係研究センターのリモートの2日間の研修を受けたのだが、そこでは自己概念の再検討という深いテーマを取り扱った。そして私は1日目が終わった後、魚を締めようとしているが、なかなか死なないというとても生々しい夢を見た。

 

●それは今になって思うと恐らく私自身の自己概念の内、今は必要ないものを捨て去る、ある意味「死と再生」に関わる何かだったのかなと感じる。いのちには生々しくグロテスクに感じられる部分があると思うが、こうした揺らいでいる状態の中で、恐らく私の身体からは何かの形でこうしたメッセージが発せられていたと思う。

 

●しかしそれはまだ言語化される遥か以前の状態に止まっていて、リモートの講座では講師や学んでいる仲間も気づくことは難しかったのではないかと感じる。しかし身体が共にある形での講座なら、私の様子を見て何かを感じ、働きかけてくれる人もいただろうと思うのだ。

 

●こうしたことから私は、私たちが共にいる時、言葉というレベルではなく何かをわかちあっているのだと感じている。だから一緒にいるだけで自然にリラックスして時を過ごせたり、まだ本人も意識できていないような身体の奥で起きている揺れを感じとれたりする。

 

●コミュニケーションの語源はラテン語のコムニカチオだが、それが「分かち合う」「共有する」という意味を持つ。私は魚が引き上げられてから「水」の存在に気づくように、「人と共にいること」が失われて初めて「分かち合う」ことの意味に気づいたように感じている。

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