●今また新型コロナ感染症が蔓延してきている。私の住んでいる大阪は特に流行がひどく、10万人あたりの新規患者数も多いし、重症者も増えていて、重症者用の病床もほぼ埋まりつつあると言われている。さらに昨日は大阪だけで12人もの人が亡くなった。
●こうした中、私の中ではここ数日お腹の中にズンと重いものがある感じがしていて、今日はついに朝早く目を覚ましてしまった。それでフォーカシングの方法を使ってベッドの中でその感じに焦点を当て、それが何を言いたいのかに耳を傾けてみた。
●まず出てきたのは、私自身が感染することへの恐れだった。でも「怖いよ〜」という感じはあるが、今感じているほど重いものではない。次に出てきたのは「わかってもらえない」「助けてもらえない」という気持ちだった。もう一つ「打つ手がなくなる」という切羽詰まった感じもあった。
●何回かこのブログでも触れたが、私は4人家族で、感染すると重症化のリスクの高い既往症のある高齢者と同居している。致死率は少し下がったと言っても老人が感染すれば10数パーセントは死に至る病が目の前にある中で、どうにか皆元気でこのコロナ禍を乗り切りたいと心から願っている。
●そしてまず私は残念ながら世の中はこうした私の願いを助けてくれる方向には動いていないと感じているようだ。大阪では政治は「病床のある限り、感染は容認する」という方針をとっている。また国もGo toキャンペーンなど感染のリスクを一定とる方向で進んでいる。
●学校も特に10代の子供の重症化リスクが小さいため、「普通」に行われている。感染のゼロリスクを目指すと経済が行き詰まり多くの人が困るのだから、こうした政策は理解できる。また休校などをすると、生徒も保護者もより大変になる家庭が多い。それもよくわかる。
●しかし結果として市中感染が容認されると、私のような「感染した時のリスクが大きい立場の者」は、苦しい状況に置かれることになる。例えば今東京や大阪では、働く世代の人々が外で無症状者から感染し、家庭内で高齢者にうつす事例がとても多い。こうした「見えない感染」を防ぐことは困難だ。
●例えば私が今支援している学校でも、前期はオンライン授業や時差出勤、シフトを組んでの在宅勤務と感染対策に気を遣っていた。しかし今では「普通」に出勤することが当たり前になっている。これは「見えない感染」のリスクは仕方がないという考え方の元に成り立っているといっていいだろう。
●一方私はそれでもこうしたリスクも回避し、家族を守りたいと思っている。「感染した時のリスクが大きい立場の者」にとっては、このリスクは「仕方ない」では済まないものなのだ。だから私は「わかってもらえない」「助けてもらえない」「打つ手がなくなる」という気持ちになっているのだろうと感じる。
●今私はこうした「仕方がない」という風潮と戦う必要を感じている。労働災害も「仕方がない」で済ましていた時は減らなかった。そして労使双方が安全管理に注意をはらい出して改善されていった。だから私も少し頑張って感染拡大状況ではテレワークなど予防的措置をお願いして行こうと思う。
●実際、私の場合は今のところ職場で一人だけオンラインで会議に参加しても「気にしないで」と声をかけてもらえる。ありがたいなと思う。弱い立場にある時は、いつも以上に配慮のある言葉や対応が身にしみて嬉しく感じるのだ。私もそのことを忘れないで他の人に配慮できるといいなと思う。