●ここ数ヶ月、集中的にバイアスについて学んできた。私が“今ここ”を大切にするための示唆を含んでいるように思えたからである。バイアス研究の第一人者であるダニエル・カーネマンによると、バイアスとは「判断と選択についてのエラーのなかで、特定の状況で繰り返し起きる系統的エラー」である。
●系統的であるがゆえにバイアスが生じることはある程度予測できる。例えば自信たっぷりの美男子が講演すると、聴衆は彼の意見に本来以上に賛同をおくるだろうと予測される。これは美男子という一つの特徴しか見ていないのに、他の全てに好感を持ってしまう「ハロー効果」と言わるバイアスである。
●この他、例えば津波などは思い出しやすいがゆえに発生確率が実際よりも高く見積もられると予測できる。これは「利用可能性ヒューリスティックス」と呼ばれるバイアスだ。そしてこのバイアスの一つに私たちが物事を実際以上に因果関係によって捉えてしまうと言う系統的エラーがある。
●例えば空軍のパイロット養成において、多くの教官は「叱る」と次に上手に飛べると認識し、そうした指導スタイルをとっていた。しかし実際にはまだ訓練中のパイロットは1回ごとの出来不出来の幅が大きい。だからうまくできた後はできない確率が高く、できなかった後は成功する確率が高い。つまりこれは偶然なのだ。
●しかしバイアスは因果関係をつけて物事を説明するのが好きである。そのため「単なる偶然」の出来事なのに、「叱る」とうまくいくと捉えるエラーをしてしまう。これは株価の上下の解説においても起こるし、コロナなどの災害の発生の説明でも起こる。誰かのせいにして犯人探しをしたがるのもここからくる。
●これに関連してもう一つ面白いなと私が思ったのは、私たちが過去の経験を評価する際、ピークエンドの法則が働くということだ。つまりピーク時の体験の強さと終わり方でどれほど良い体験(または悪い体験)だったかが判断される。一方、その体験の持続時間はほとんど考慮されない。
●これは過去の体験の評価は「記憶する自己」が行い、“今ここ”を体験する「経験する自己」とは別であるということだ。例えば旅行に行くと“今ここ”で美しい自然に触れる経験ができる。しかし調査によると体験の記憶や写真などが全て失われると仮定した時、旅行に行く意味を感じない人が多いことがわかっている。
●このように私たちは過去(出来事や体験)について偶然の出来事も才能や意志で説明するなど誤った因果を組み立て、過度に単純化したストーリーとして捉えがちである。そしてこのストーリーが私たちの世界観や将来予測を形成する。これが自分の周りの様々な出来事を説明するおおもとになるのである。
●つまり人間は過去について根拠薄弱な説明をつけ、それを真実と信じることで、のべつ自分を騙すところがある。これは講釈の誤りと呼ばれるバイアスである。これには多くの知識人や評論家なども陥っている。だから長期予測や歴史による決定論は信頼できないとカーネマンは述べている。
●ただこうしたバイアスは私自身にもあると思う。私は知らないうちに自分の人生を物語にし、総括し評価してしまう。ナラティブ心理学が言うように、その物語はその時に思い出される人生の印象的な出来事を星座のように繋げて形成されている。それは事実ではなく過度に単純化された講釈なのだ。
●もちろんこうした物語は大切なものだ。もし私が人生で起きたネガティブな出来事ばかりを思い出し、自分は人生に失敗した落第者であると言う物語を構成してしまえば、これから先の人生をよりよく生きるのは難しくなるだろう。だからよりポジティブな体験を思い出し、人生を語り直すことは大事だと思う。
●しかし同時に私の作る物語がバイアスのかかった講釈に過ぎないことも心に刻む必要があると感じている。もし良い人生の物語にこだわると、ピークエンドの法則から人生の最後を汚すことを避けたいと言う保守的な気持ちが湧いてくる。これは人生の評価を上げたいと言う私欲と言えるだろう。それは私が“今ここ”を生きるのを妨げる。
● また考えてみれば“今ここ”の関わりは一人一人をより自分らしく生成していくが、これは強い体験であるとは限らない。また実際の結果も目に見えない。つまり終わりがない。だから“今ここ”はピークエンドの法則に当てはまらず、物語では重要なものとして登場しない。しかし実際にはこの“今ここ”こそ私を生かしてくれるものである。
●このように良い人生の物語に拘泥すると、“今ここ”を妨げることがある。自分についても他者についても、物語を見てしまい、“今ここ”で見て感じることを忘れてしまう可能性がある。人生の物語は大事だが講釈に過ぎない。物語は常に“今ここ”を大切にして語り直されるところに初めて意味が生まれるように感じている。