●久しぶりにショーンの「専門家の知恵」を読み返してみて、この本は今の私を形作ってくれている本だなと感じた。そして内側から生きる勇気のようなものが湧いてきた。簡単に流れを追ったのち、今の私にとって重要だなと感じたところを取り上げて検討を加えてみたい。
●ショーンはまず私たちが従来専門家についてどのような見方をしていたかを分析する。それは「技術的合理性」モデルと呼ばれ、そこでは専門家は、一般的な科学的原理をベースとした応用科学や技術をクライアントへのサービスに適用する技能を持つ人と捉えられる。
●そして医学などのように実践のベースとなる知識が基本的で一般的であるほどその人の地位は高くなる。例えば社会福祉士が専門職としてサービスに科学的方法を適用すればするほど、専門職の階層構造の中で上昇していける。知識も階層化され、科学的・一般的知識の地位が高く、実践の知識はその下に位置付けられる。
●こうした考えは、科学的な理論と技術を実践の問題に適用するものとして専門家の知識をみなす支配的な見解と言える。この「技術的合理性」は科学と技術の成果を人類の福祉に適用することをねらった社会運動として19世紀に成長した実証主義哲学が生み出したと言われる。そして第二次世界大戦を通じて世界中に広まった。
●しかし1960年代以降、「技術的合理性」モデルの限界が指摘されるようになった。「技術的合理性」の視点では専門家の実践は問題の「解決」過程であり、すでに確立された目的にとって最適な手段を選択することによって解決される。しかし現実世界では不確かな状況の中から問題を構成する必要がある。
●また「技術的合理性」は目的が明らかな時に力を発揮する。しかし目的が交錯し葛藤している場合は、技術の使用によって解決することはできない。達成すべき目的とその目的達成が可能な手段の両方を構造化し明らかにすることは、問題状況に枠組みを与えるという技術的でない過程を通じてなされる。
●こうしたことから実践者が不確実で独自な価値葛藤をはらむ状況にもちこんでいる実践的認識論を探索することが必要となる。これが「行為の中の省察」である。例えば大リーグの投手はボールの感じをつかみ、その感じでうまくいったときと同じことを繰り返すノウハウと言う実践的な知識を持つ。
●ここで「感じ」は再びそれを実行することを可能にするものである。投手は自分の行為のパターン、状況、暗黙のノウハウについての一種の省察を行う。ジャスのセッションでも集団でつくり上げる音楽に対し、個々人が寄与できる音楽について行為の中で省察する。つまり「音楽の感じ」を通じて省察している。
●また教育現場においても、教師は指示に従う能力がないと見ていた子どもに困惑していたが、その感じをきっかけとして詳細にプロセスを観察することで、彼なりに教示に従っている事実を見出した。このように不確かな独自の状況の中で、感じや驚き、困惑、混乱を省察することで、現象の新たな理解と状況の変化とを共に生み出すことが生じている。
●ショーンはこうした知が十分に社会的に認知され、位置付けられていないことに問題意識を持っている。そして専門家が「実践の中の省察」を通じて知を生み出しつつ実践を行う反省的実践家になることを提唱するとともに、それを科学的な研究に結びつけていく必要を論じた。
●今思えば私の中でも、こうした「技術的合理性」から「行為の中の省察」への変化があったなと思う。私は子供の頃は「技術的合理性」モデルに疑問を持たなかった。しかし社会に出る頃になると、現実世界の中で不確実で独自な価値葛藤を体験するようになった。
●就職した銀行は自分には合わないように感じる。でも自立と安定のためには勤め続ける必要がある。どう生きたら良いのか?こうした人生の意味と目的に関わる問いには科学や知識はあまり役立たない。一方自分が持つ「感じ」なども、主観的で不完全でうつろいやすく、頼りにできるものとは思えなかった。
●しかしその後ラボラトリーと出会い、グループにおける関わりを通じて、「感じ」が持つ意味を徐々に理解することになった。今ここで生まれる「感じ」(例えばある人への違和感を伝えたいと言う感じ)を大切にして、必要であれば伝え聴くことで、体験からの学びが生まれてくる。また関係も深まっていく。
●またこの「感じ」を私は覚えていて、次の似たような機会にまたこの「感じ」が生まれているなと気づけると、同じように関わることができる。大リーグの投手のように「感じ」は再びそれを実行することを可能にするのである。こうして体験から「感じ」をある種の知恵として頼りにすることを学んでいったのである。
●その後この学びを日常に当てはめ、今ここで生まれた感じを頼りに銀行をやめることになった。今考えればその後自分らしく生きる道を歩む第一歩になったと思う。こうした文脈の中で私はこの本を読み、私は今ここでの「感じ」を大切にした「行為の中での省察」をしていたのだなと気付かされた。
●たぶん私は、自らの生の意味を問いよりよく生きるために「私を生きる専門家」になる必要があったのだと思う。自分に今ここで生まれてくる「感じ」を頼りに、利用できる科学や知識などもフルに活用して「行為の中での省察」を行い、私を生きる知恵を自分で築いていく必要があったのだ。この本は私が私を生きるのを手助けしてくれたと感じている。