温故知新〜パウル・ティリッヒ『生きる勇気』(1995)「The Courage to Be」1959)

●パウル・ティリッヒは哲学、思想にまで大きな影響を与えたプロテスタントの神学者である。キリスト教という枠の中にいる人だが、信条に閉じこもらず、人が現にある時代や状況の中で問われる問いに対して、キリスト教の真理によって答えることが神学の役目であると考えていたと言われている。

 

●この本でも、人が生きることを妨げる要因(“無”に直面する不安)を分析し、それを克服して生きるために何が必要なのかを真摯に検討している。無への不安から病に冒されていた人が、この本を読んでたちまち平癒した出来事は有名で、まさに生きる勇気を与える本と言えるだろう。私にとっても生きる上で大切な本である。

 

●ティリッヒによれば生きる勇気とは、「人間がその本質的な自己肯定に反逆する諸要素に抗してかれ自身の固有な存在を肯定する倫理的行為である」。この勇気についてはソクラテスの死に向かう勇気から始まり、ニーチェなどの生の哲学に至るまで哲学の流れの中で常に取り上げられてきた。

 

●彼によれば勇気とは「それを妨げるものに抗して、“それにもかかわらず”自己を肯定することである」。だから「無(存在を否定するもの)の問題を考察しなければならない」。この無の姿の一つが“不安”である。不安は「存在が非存在(無)でありうる可能性を自覚している状態、無が人間存在の一部であるという自覚である」。

 

●つまりそれは「自分の有限性の自覚(死すべき人間)」である。この不安は対象を持たない。死の不安は不安である限り、それは認識の対象にならない。人間はそれ自身の存在を保持することができない。それは虚無の脅かしであり、永遠の死に関連する。恐怖のように対象がある場合は闘争も、愛も可能だが不安においてはそれはできない。

 

●ところで存在なしに無はない。だから無はそれが否定する存在に依存している。そして存在との関係で無は性質を得る。彼によれば、無が存在を脅かす不安の3類型を区別することができる。その第1は絶対的には死、相対的には運命という形で存在的自己肯定を脅かす。

 

●死は不可避であり、人間の自己の完全な喪失を意味する。私たちは消滅を免れる一瞬の時も持たない。人間はそれでも自分自身を肯定する勇気が必要となる。この死の不安は、その内側で運命の不安が作用する。運命という偶然性の支配は、無の脅かしの相対的現れであり、背後に死という絶対的なものがあり不安を生み出す。

 

●第2に絶対的には無意味性、相対的には空虚さで人間存在の精神的自己肯定を脅かす。意味の領域で創造的に生きると精神的自己肯定が生起する。無意味の不安とはすべての意味あるものに意味を与える意味、つまり究極的関心を喪失する不安である。どの対象も意味を失い、何一つ満足を与えない。懐疑によって真理に対し絶望が生まれる。  

 

●第3に絶対的には断罪、相対的には罪責という形で人間存在の倫理的自己肯定を脅かす。人間はなるべきものになるよう、運命を成就するよう求められる。しかし人間にはそれに背く力がある。最善の善行にも無が顔を出す。完全さを妨げる。この曖昧性の自覚が「罪責感」を生む。そして審判者として自分に否定的な判断を下す。これが罪責である。

 

●勇気とはこうした“無”にもかかわらず、自己自身の存在を肯定することである。どのような時代のどのような社会もある程度、その構成員にこの勇気を与える制度や伝統を持っている。例えば中世ヨーロッパでは教会が無への守りとなっていた。しかし例えば懐疑という思想が広がるなど大きな時代の変化があるとその守りが崩れてしまう。

 

●ティリッヒによると「近代末期は精神的無の不安、つまり空虚と無意味の不安が生じた。絶対主義の瓦解とリベラリズム、民主主義の発展、技術文明の勝利がその原因である。3つの主要な不安の時代は、各時代(古代、中世、近代)の末期に現出した。それは日常構造と化した意味、権力、信仰、秩序の構造の崩壊で顕在化した」とする。

 

●こうした“無”に直面するためにいくつかの道がある。その一つが集団との完全な同一化を図ることである。それは自己自身の喪失でもあるが不安の解消にもなる。集団の大義に身を投げ出すことは犠牲でなく生の完成と感じられる。運命と死は自分の一部であるそれを破壊できない。これは死の超越である。ただ全体主義やカルトはこれを利用する。

 

●またノイローゼの中に逃避することで絶望という最後決定的状況を回避することもできる。「ノイローゼ的人格は無に対する大きな感受性と深刻な不安ゆえに、固定された(制約され非現実的でも)、矮小化された自己肯定にしがみつく。自分を守る城を築く」。それを崩そうとする人に激烈な抵抗を行う。もちろんこれでは変化に対応できない。

 

●一方アメリカなどでは1930年代以降、体制順応(コンフォーミティ)が増大した。そこでは人間の潜在的可能性は無限であり、人間はミクロコスモスで宇宙的諸力が潜在していると考えられた。人間は大宇宙の創造的過程への参与者なのである。現代の進歩は潜在的なものを顕在化、現実化する動きに他ならない。

 

●これは自然や歴史の創造的過程に参与しその部分となる存在への勇気と言える。その意味は、「生産的行為それ自体の中に現れる。生産それ自身が無限性のシンボルであり、歴史の創造的過程への参与(進歩の理念)、つまり生きる勇気となる」。ここから失業が生きる勇気を喪失させることがわかる。ただ「何のための生産か」という懐疑は抑え込めない。

 

●また個人主義という、自らを個的自己として肯定する道がある。これは個的自己を無視して全体の部分として自己肯定する集団主義の対極にある。個人主義はデモクラシーの翼の陰に守られ成長し、実存主義運動の内部であらわれた。実存主義とは特定の哲学形式で、自分自身であろうとする存在への勇気の最もラディカルな形態である。

 

●こうした分析の上でティリッヒは「勇気は無を超克する力を必要とする。勇気は人間の力、世界の力よりも大きな存在の力に根ざす必要がある。生きる勇気は宗教的根底を持ち<存在それ自体>に参与する。それは無に脅かされたとき感知できる」。と述べ、その宗教的根底、信仰の形態を細かく分析していく。

 

●この本を読んで私は自分自身もこの死による存在の消失、無意味と空虚さ、罪責感という“無”から逃れることはできておらず、いろいろな人生の局面で現れてきたことを認めざるを得なかった。そして今もなお、こうした“無”の脅威にさらされ続けている。

 

●そして私の場合、この“無”に直面する力が体験から与えられているように思う。主な体験としてはラボラトリーを何回も行う中で、グループや関係を動かす力が個人を超えて存在することを体験したこと、また父の死に際し誕生から死に至るまで人を促していく力を感じ取れた体験などがある。結婚という体験もその力を感じさせてくれた。

 

●この力を私は“今ここ”で感じていて、まさにティリッヒのいう「人間の力、世界の力よりも大きな存在の力に根ざす」ものであると感じる。この“今ここ”の流れと共にある時、私は“無”の前でも安らかにいられる。死を恐れないですむし、“今ここ”が生み出すことそのものに意味を感じる。また罪は “今ここ”で常に許されると感じる。

 

●しかし私にとって常にこの“今ここ”の流れと共にあることはとても難しい。そしてこの力を感じていない時、すぐに“無”が忍び寄ってくる。今回この本を読み返して特に私の場合、この“無”への不安は(人や組織に対して)“役立たない”という絶望の形で起こることが多いように感じる(もちろん死への不安もあるけれど)。

 

●“役立たない”とお金を稼げず、生活が維持できない。それは死への不安に直結する。他者や社会に“役立たない”と認められない。これによって自分の存在の意味を見失い、罪責感を感じるようになる。また社会という大きな存在とのつながりを失い、それが持つ意味や許しを得られなくなってしまう。

 

●こうして私は“無”から逃れるために、強迫的に他者や社会に役立つことを求める。しかしそこにはもちろん落とし穴がある。ナチスのような集団が生まれた時、そこに“役立つ”ことは他者の存在を抹殺することにつながるからだ。そこには生きる勇気は存在しない。この行為は“無”を包み込んでいないと言えるだろう。

 

●表面的にどんなに意味ある良い行為に見えても、それが“無”から逃れるために強迫的に行われるなら、それは自分も人も生かすことはない。一方、私が “今ここ”の流れと共にいることで不安を克服し、なお目の前に人のために何かをしたいと思うなら、それは生きる勇気と言えるのではないかと感じる。

 

 

お問い合わせ