●ワクチンの接種が進んでいる。高齢の母も昨日2回目の接種が済み、妻も28日に2回目が決まっている。64歳以下の接種も始まろうとしていて明日明後日にも私にも接種券が届く。こうした中、2日も連続してワクチンに関する夢を見た。“今ここ”で何が起きているのかを確かめるために、これを書きつつリフレクションしてみたいと思う。
●ワクチンを巡って私に今起きていることを見てみると、まずは母と妻が接種をして、私はとてもホッとしている。彼女たちのリスクが減ったことが嬉しい。同時に私が仕事などを通じて感染し、無症状で彼女たちにうつしてしまう可能性が減ったことに、重たい肩の荷を下ろしたような感じがしているのだ。
●またワクチンを打つと引き受けている授業や研修に行くことができるし、仕事も対面で会えるなという期待感がある。特に8月の初めに長岡の看護学校の授業があるのだが、そこの授業でラボラトリーの仲間と会えると嬉しいという気持ちもある。支援している学校にも安心して伺うことができるようになる。
●次に焦りも感じる。64歳以下の接種が始まると、またワクチン不足のようなことが起きて、なかなか順番が回ってこないのではないかという恐れがある。その中でインド由来のベータ株が流行るとリスクがかなり高くなる。だから自衛隊の大規模接種などを急いで予約したい気持ちになる。
●一方で今ワクチンを打つことに対する前向きでない気持ちもあるようだ。副反応の対する怖さもあるが、むしろワクチンを打つことによって「普通」に生活しなければならなくなることへの躊躇が大きいようだ。つまり電車に乗って対面で会ったり、私の場合、研修をしたりという生活に戻ることへの躊躇である。
●この躊躇はまず、今のステイホームの期間中にこうした生活に慣れ、私の身体に優しい、それなりに意味ある生活を築いてきたことを手放さないといけないと感じているところから生まれているようだ。書いているうちに、コロナ以前の生活に完全に戻りたいとは思っていない私がいるのだなとわかってきた。
●この躊躇はまた、4〜5月にかけてコロナのために1000人以上が亡くなり入院できない人が続出した大阪の苦しみとも関連しているようだ。なぜ大阪でこうしたことが起きたのかも共有されず、その死を悼む機会のないままで、ワクチンを打って「さあ日常に戻ろう!」とできない私がいるようだ。
●またこの躊躇は、基礎疾患のある人など重症化リスクの高い人たちがまだ接種を終えていない中で、私のような者が先に打ってもいいのかという気持ちから生まれている。焦って急いで予約を取ることは、こうした人たちの席を奪ってしまうのではないかという恐れを感じる。
●こうして書くことでリフレクションしてみて、いくつかの気づきが生まれてきた。まず私はワクチンを打つこと自体に躊躇を感じてはいないということだ。二度と5月の大阪の苦しみを繰り返さないために、ワクチンは打つ必要がある。ただワクチンを打つことで、コロナ前のような「日常」に戻ることに躊躇を覚えているのだ。
●私はこの躊躇を大切にしたい。ワクチンを打ったとしても、元に戻るのでなく、コロナを体験した今の私にふさわしい生活を築きたいと思う。私の希少な注意力をオリンピックには向けないで、5月の大阪の苦しみに心を寄せ、祈り、二度とそれが起こらないために何ができるかを私なりに考えたい。
●そしてワクチンの予約を焦らないで、他人の席を奪うことなく、私が接種するのにふさわしい与えられる時を待ちたい。そこで起きる副反応は全て受け入れたい。また接種前までにベータ株が流行し、感染することがあってもそれは受け容れようと思う。こんな時こそ今ここを大切に生きていきたいと願っている。