●今デザインということに興味を持っている。直接のきっかけは、私が長年関わっている沖縄ヒューマンインターラクション・ラボラトリーのパンフレットやホームページを新たに作ろうということになったことである。そこでもともとデザインに苦手意識のある私は何冊か本を読もうと思い立った。
●まず「デザイン入門教室」という一番基礎的と思える本を読み始めたが、そこでいくつかハッとさせられたことがある。一つはデザインというと「私はセンスがないから」とよくいうが、センスの前にルールがあるのだという言葉だ。私自身も「センスがない」をこうした仕事から逃げる口実に使っていたことに気づかされた。
●もう一つはデザインを使えば言葉にならないことを伝えられるということを教えられた。ラボラトリーでは言葉にすることが難しく、むりに言葉にすると陳腐で怪しく思われる体験がある。しかしもしかしたらデザインを使えばある程度その雰囲気を伝えられるのではないかと感じたのだ。
●早速この本を参考にしつつ、自分なりにパンフ作りに取り組んでみたのだが、そこでも発見があった。一つは自分がその作業に熱中できるということである。いつの間にか時間が過ぎてしまう体験をした。全く意外なことに、私は昔毛嫌いしていたその作業を楽しんでいると言ってもいいのではないかと感じる。
●これは作業をしてビフォーアフターで比べてみると、「明らかにこっちがいい」と腑に落ちる感じや満足感があることに関係しているだろう。つまりデザインには、私の“今ここ”の感じを喚起し、それを動かす力がある。逆に言えば、ラボラトリーについて私が持っている感じをぴったり表現できる力がデザインにはある。
●こうしてみると「デザインはプロに任せればいい」という考えはデザインの本質を取り違えているように思う。つまりラボラトリーを深く体験し、その感じを持っている人しか、ラボラトリーを表現するデザインはわからない。ただその人はデザインのルールや道具に習熟していないので、そこをプロに補ってもらう必要があるのだ。
●こうしたことを考えているうちに、近代デザインの源流に位置するウィリアムモリスなどは、機械化・工業化の流れの中で失われる手作業を大切にする運動を、デザインを通じて展開したことを知った。これはイリイチが言う「コンヴィヴィアリティのための道具」と言う考えにもつながるかもしれない。
●私の理解だが、自分を取り巻く様々なモノや道具、制度について、専門家や機械に任せてしまうことが起きているが、その結果自分の“今ここ”が抑圧されてしまう。身の回りの道具やモノ、制度などについては、自分の“今ここ”をより大切にできるように自分自身が主体的に「デザイン」に参与する必要があると言うことだ。
●こうしてみると「デザイン」と言うのは私にとって、目の前のパンフのことだけではなくこれからの生活全般に関わる大事なものだったのだなと感じる。デザインの技術的なプロにはなれないだろうが、自分の“今ここ”が動くかどうかは自分が感じとれる。そこを大事にパンフ制作にも生活の改善にも取り組みたいなと感じている。