●「3月のライオン」と言うアニメをご存知だろうか。主人公・桐山零は17歳のプロの将棋の棋士。幼い頃、事故で家族を失った零は心に深い孤独を抱え、将棋だけを生きるよすがとして日々を過ごしている。そんな中で出会った3姉妹(あかり・ひなた・モモ)と接するうちに、主人公の心は少しずつ変化し、愛と生きる力を見出していく。
●ここでは力強い将棋の世界と同時に、桐山零や周りの人々の心の動きが非常に細かく描写されている。この世界に将棋というコンテンツを通じる以外にどこにも居場所が感じられない零の絶望、相手に対し嫌な気持ちを抱く自分への嫌悪、学校でいじめを受ける中での追い込まれ感や反発心、生きる力などが驚くほど繊細に表現されている。
●私はラボラトリートレーンングに関わる中で繊細さを持ち生きることは大変なことだと常々感じてきた。それは生きづらさを生み出す時がある。例えば感受性が強いほど、他者の小さな悪意や様々な気持ちに気づいてしまう。そして繊細なほど傷つき、また逆に自分を責めるようなことも起きかねない。もちろんその分愛も強く感じるから人生が豊かになる側面もある。
●私は最初このアニメを読んで、自分にはこうした繊細さはないし、作者が特別に繊細に生まれついた人なんだろうなと思っていた。しかし最近、他の作品においてもこうした心理描写が見受けられるようになり、若い人と話していても、多くの人にこうした繊細さを感じるようになった。これはもはや一部の人のものではない。
●こうした現象は、人と人との関わり方に大きな影響を与えているように思う。例えば私のようにあまり繊細でない者も、相手が繊細さを持つ場合、そこに配慮して関わる必要が生まれてくる。つまり私の関わりが相手に嫌な思いを与え、傷つけてしまわまいように、また相手の気持ちにより敏感になるように関わる必要がでてくる。
●このことは教育現場で合理的配慮の必要性が言われ、特別支援の大切さが強調される中で助長されてくる。私は本来あまり持ち合わせない繊細さを学び、身につけ、関わることが必要となってくるのだ。いわば「学習された繊細さ」が求められる。しかしこれは自然なものではないので、うまくできなかったり、すごく神経を使って疲れてしまったりする。
●そこで出来るだけ関わりを避け、必要な場合でも相手を絶対傷つけない関わりを見出そうとする。例えば相手の人の言動が気になっていても、絶対にその人に直接確かめず、本人が自分から話に入ってくるのを待つ。しかしここでは「今ここ」で感じたことがコミュニケーションされないため、より自分らしい関わりを体験から学ぶこと、関係を深めることが難しくなる。
●もちろん本当に繊細な人に対して、またこうした特別な関わりが必要な個性を持つ人に対して配慮することは大切なことだ。しかし私が気になっているのは、こうしたことが「学習された繊細さ」を身につけた人同士で生じてしまい、自分らしく成長することが阻害されてしまっているように見えることである。
●私たちは、本来今ここで感じたことや気持ちを分かち合う中で、自分らしく成長する可能性を持っている。しかし過度な配慮を学習してしまった結果、その成長の可能性が阻害されてしまっているのではないか。それが今学校や社会で広がりつつあるのではないか。この「学習された繊細さ」という仮説をより詳細に検証してみたいと感じている。