●最近、小林武彦さんという生物学者が書いた「生物はなぜ死ぬのか」という本を読む機会があった。本の帯に「死生観が一変する」とあったが、読み終わってしばらく立ってふりかえると、今の私の場合は、死生観もそうだが、病気の捉え方、そして”今ここ”の捉え方にも影響があったように感じている。
●私がこの本から受け取ったのは、まず生物は環境の変化に対応して生きるために、自らも変化を大切にしてきたことだ。つまり遺伝子が時々コピーエラーを起こすものが進化の中で生き残ってきた。そして個体の死を選ぶことで次世代に生を受け継ぐ戦略を採用した生物が生き残ったということも学んだ。
●こうした考えは私にとっても特別新しいものだったわけではない。アポトーシス(多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる)の考えは前から知っていた。ただ還暦を迎えようとしている今の私にとっては、身体は死を準備するのだという事実が改めてとても新鮮に感じられている。
●というのも、常日頃から私は身体から生まれてくる”今ここ”の気持ちや感じを大切にしたいと生きている。それが自分も人も大切にすることにつながるのではという仮説を立てて過ごしている。そしてまだ反証には巡り合っていない。だからこの仮説は生き続けていて、今のところ私はこうした身体の知恵を信じている。
●そしてこの私の身体もまた死を準備する以上、死は頭が思うような怖いもの、避けたいもの、マイナスのものとは限らないなと感じている。逆に言えば私は頭だけで死をネガティブに捉えているのではないかと疑うようになっている。そしてもっと身体から生まれる感じに目を向けたいと思っている。
●さらにこの本の考えを敷衍すると、私という個体は人間という種にとって細胞のようなもので、その死は大きないのちを生かすために意味のあるものと言える。つまり身体は「私」を細胞に当たる個体としての私だけでなく、種そのもの、またはいのちそのものと捉えているのかもしれない。
●また変な言い方かもしれないが、私という個体がどんなに悪人でも、罪びとでも、能力がなくても、役に立たなくても、最後は死によって他のいのちを生かすことになる。意識がそれだけ利己的であっても、身体は利他的に行為すると言えるのではないだろうか。もちろんこれは頭の話ではあるが。
●またこの本はさまざまな病気、がんや心疾患なども必ずしもネガティブなものではないのではと感じさせてくれる。それらは身体の死の準備、つまり老化から起きるからである。これらの病は、老いを迎えた生物にとって極めて自然なものであり、どこかを治しても他の形で現れ、生物としての最初の設計通りに個体を死に導くものと言える。
●もちろんこれからも私は、死を恐れ続けるだろうし、病気になればそれを治そうとするだろう。しかしこの本が教えてくれることは、体の不調を過度に気にやみ、この身体を維持することだけに固執することはないのではと感じさせてくれる。身体の声を大事に与えられた時間の中で、いのちを最大限使いたいなと思いはじめている。