●だいぶ前に『7つの習慣』という本を読んで以来、年末から年初の数日をかけて自分の来し方をゆっくりと振り返り、これからの方向性と今年のねらいを言葉にすることを習慣にしている。今年は1月5日に大事な研修があったので、年末年始はそれにかかりきりになってしまい、今週ようやくこの作業に取り組むことができた。
●もちろんねらいなどは毎年大幅に変わるわけではない。年によっては文言を少しいじるくらいでいいと感じることもある。しかしおそらくコロナの影響などで私自身の生活や仕事、考えにも大きな変化があったためだろう、今年は全面的に改訂をしたくなった。還暦も迎えるし、自分や周りの変化も大きいように感じていたので、それに合わせて変えていく必要があるように思えたのだ。
●ただ何かあった時に立ち帰ることのできる方向性やねらいにするためには、自分の一番奥深いところを見つめて、そこにピッタリくるように腑に落ちる言葉を見出す必要がある。それはとても難しい作業だ。実際作業が終了した今も、まだ完全にこれでいいとは思えてはいない。それでもこうしてリフレクションしたことで、ああ、自分はこれからこうしたことを大切に過ごしたいのだなということが見えてきた。
●具体的には私は今年の方向性・ねらいを「“今ここ”だけを生きる実験をすること」という言葉にした。それは“今ここ”で与えられるものを大事にすること、それが生み出すものを受け入れてみること、それが自分や他者を大切にできるものであるかを検証することである。そしてこうした言葉は私を導き、支えてくれる時があるように思うし、今週早速私は、この言葉に支えられた体験があった。
●それは認知症を患う母との関わりである。認知症はアルツハイマー病によってだけでなく電解質異常(低ナトリウム症、低カリウム症)によっても悪くなる。だから電解質異常を引き起こす市販の胃腸薬の服用は専門医から厳しく止められてる。また夏に症状が悪化した時は、下剤を飲みすぎて下痢をし、低ナトリウム症になったのが原因であったので、下剤も彼女には危険な薬である。
●しかし母は長年、食事後少し食べすぎただけで胃腸薬を常用し、下剤もほぼ毎日のように飲んでいたので、身も心もこうした薬に頼る癖がついている。それで医者の指導通り家族が管理しようと薬を取り上げると、怒って反発し、それではご飯は食べないなどと脅迫してくる。そして一人の時に薬局に行って、市販の薬を買って飲んでしまう。認知症なので何回も薬を飲み下痢をしてしまう。
●もちろん薬が認知症に悪いことは繰り返し説明するが、そこは病気ですぐ忘れてしまう。30分かけて何とか説得しても、10分後には一から同じ会話が始まる。こうした中で私は自分の無力感を感じ、自分ではもう面倒を見るのは無理だから他の人に代わってほしいという気持ちや、もういいや、なるようになれという投げやりな気持ちがないまぜになった。
●こうした気持ちをリフレクションしてみると次のようなところから生まれていることがわかった。つまり母にとって毒になるわかっている薬を、強制することなしには止めることができない。説得できない。その時はわかっても病のために忘れて一からになってしまう。しかしあまり強く強制すると関係も悪くなるし、24時間監視することもできないので実質的にはできない。でもみすみす身体を壊すのを見てはいられない。
●こうして起こっていることを分析してみると、実際この薬についての母への対処には解決策がないように思える。袋小路で行き場がないので、無力感が生じていたのだ。しかし私はここまできて今年の「“今ここ”だけを生きる実験をすること」というねらいを思い出して思った。こうした時こそ頭で考えず、刻一刻“今ここ”だけを大切に関わればいいのだと。
●こうして私は今朝も、最近日課にしている「朝の光を浴びてセロトニンを出す」ための散歩を母としてきた。そして近くの公園の楠にいつものように挨拶し、手を温めてくれる日光に感謝し、春に咲くために準備をしている梅や桜のつぼみに感嘆しながら母との時間を、限りない慈しみをもって過ごすことができた。それで十分ではないだろうか。母との関わりに「解決」はいらないように思う。