●長年ラボラトリートレーニングに関わっていると、時間を超えるかのように感じられる不思議な出来事に出会うことがある。例えば私は10年以上前に一緒にグループにいた人から突然改まって謝罪されたことがある。もちろん私にとってもその体験は何かほろ苦いものとして残ってはいるが、具体的なことは覚えていないし、ましてその人に謝罪して欲しいなどとは思ったことはない。
●しかしその人にとってそのグループでの体験を真に自分のものとして受け入れるためには、その時その場を共にした私に謝ることが必要だったのだと思う。出来事は10年以上前に起こったことでも、その体験は“今ここ”でなお続いていて、その人が新たな自分に出会うことを促す。私はその立会人になるのだ。そしてこうしたことがいつ起きるかは誰にもわからない。
●こうした出来事に出会うと、日常流れる直線的な時間の体験とは次元の異なる“時”というものの存在(はたらき)を感じる不思議な感覚が生まれてくる。そしてつい先日にも、こうした“時”の立会人となる体験があった。それはコロナが始まる前のラボラトリーで起こったことだったのだが、あるスタッフの方がグループの中で理不尽とも言える形で怒りの対象にされたと感じる体験があった。
●これはその方にとってすぐに消化できるものではなく、自分のシャッターを下ろしてラボラトリーから距離を取り、それをとりあえず横に置いておく必要があるほどの体験だったようだ。しかしその体験から数年が過ぎ、コロナ禍も経て、自分なりの学びも深める中で、徐々にその体験を見つめ整理するタイミングが訪れた。そしてふとしたことから私がその話を聞かせてもらい、立会人となることができた。
●そしてこうした“時”の立会人となる体験によって、私自身も新たにならざるを得ない。その方と話しているうちに私は、こうして理不尽とも言える体験が起こるようなラボラトリーを続けていていいのだろうかと逡巡していた私に気付かされた。そしてそれと同時に、こうした体験が起こることは望んでいないけれど、人はこうした体験を通じて“時”の存在を感じとれるのだとも気づいた。
●これで思い出すのが、私の師匠の体験学習への臨み方で、例えばこちらの提示に対して参加者が反発を覚えても、それも一つの体験として学びの材料にするやり方をされていたことだ。私はそれが苦手で、できるだけ参加者が反発を覚えないで必要な体験ができるように、手順などを工夫することをしていた。それを変えるつもりはないが、でもラボラトリーでは思いもかけず理不尽な体験も生じてくる。
●今回の“時”の立会人となる体験によって私は、こうした理不尽な体験が起こることへの恐怖心を少し減らせたように感じている。今私も転換期にあり、ラボラトリーにおいても誰かに呼ばれてスタッフとして参加する立ち位置から、責任を持ってラボラトリーを開く立場に変わってきている。この中でラボラトリーは開かれて良いものだと感じさせてくれる体験だったように思う。