●仏教に「正覚」という言葉があるが、人間や世界、いのちをどのように見るかは、私たちの日常に大きな影響を及ぼすように思う。そしてこうした人間観、世界観、生命観に影響を与えるものに触れることは畏れと喜びが伴う。今思い返してみると私にとっては、ラボラトリーで深い体験を重ねたこと、本を通じて著者と対話をすることが、こうしたものの見方が変化するきっかけになっているように感じる。
●例えば私たちは目の前の一人の人を見て、さまざまな捉え方をする。男の人・女の人、おじさん・おばさんと捉えることもあるし、時には日本人・中国人などの国籍、職業、好きな人・嫌いな人、さらには敵味方、価値観の同じ人・違う人などと捉える。こうした区分けをして人を見る視点は必要だ。これがあるからこの人は発達障害なので、合理的配慮が必要だというように言える。
●またこの視点がなければ科学的知識も得られない。ある意味、日常生活を送る上で欠かすことのできない捉え方と言えるだろう。しかし一方こうした見方だけしかできないと、時に貧乏人には用がない、敵だから攻撃すべき、大学の先生だから偉いなど、不必要なもしくは有害な区分けを作り出し、一人の人としてその人を見ることを妨げることがある。
●実際私も昔は、良い大学を出て良い職業に就く人とそうでない人といった、今から思えばつまらない区分けをして人を見ていたように思う。そして私は20代の終わり頃に初めてラボラトリートレーニングに触れ、人を区分けしないで捉える見方を学んだ。体験学習では人は“今ここ”で起きる気持ちや感じ、想いを手掛かりに、それがどのように生じたかを考えることで、体験から学ぶことができると考える。
●例えば人との関わりの中で嫌な気持ちが起きたとしたら、それがどうして起こったかを考えることで、より良い関わり方を学ぶことができる。また体験学習ではこうした行動レベルの学びよりも深い、自己や他者、世界の見方の変容に繋がることもある。初めてのラボラトリーが終わってから半年ほど、私の中に何か暖かい感じが残っていたのだが、そこから人って信頼できるかもという人間観が育っていった。
●またあるラボラトリーで私はメンバーから「博野さん、誠実じゃない」と言われ、強い怒りが起きたことがある。ネガティブな感情なので本当に困ったし、しんどい思いはしたのだが、自分もそのメンバーも大切にするために何ができるかを考えた。それでこの怒りを「ないこと」にせず、なぜ生じたのかを吟味することで、「誠実でありたい私」に気づくことができた。そしてこうした自分を手放すことができた。
●こうした学びは私だけのことではなく、体験学習に来られた人に大なり小なり起こることである。つまり敷衍すれば人は皆、今ここで気持ちや想い、感じが与えられ、新たな私になるといってもいいような学びや成長が求められる時がある。しかもこうして新たにされる時は、古い自分を捨てることに伴う苦しみや辛さを伴うことが多い。蛹が蝶になるようなしんどさがそこにはあるのだ。
●だから例え目の前の人が嫌いな人でも、価値観が違っても私と同じように今ここで新たになる苦しさやしんどさを抱えた人と言える。この見方では何かの基準で人を区分けするのではなく、同じ苦しみを持つ人への共感が生まれる。だからこうした人間の見方をする時、私は目の前の人がどんな人でも、共にいることが可能になるように感じる。