●前回ラボラトリーの体験を積み重ねる中で、私自身の人間観、世界観、生命観が変容してきたことを書いた。そして私の場合こうした変容は先人や同時代の人たちが著してくれた本を咀嚼する中でも起きているように思う。例えば昨年の12月にもこのブログで小林武彦さんの「生物はなぜ死ぬのか」を紹介した。
●そこではそれぞれの人の身体が死を準備する、その結果としてさまざまな病気が生まれてくることを知った。そこから病気というものや死をそれほどネガティブに捉えなくてもいいと言う見方が生まれてきた。これは私だけでなく多くの人の救いとなると思う。しかし身の回りを眺めると病や死を何かの過失や罪の結果と捉える見方があふれているように感じられる。
●例えば聖書などにもそうした記述があるし、私の父もガンになってなくなる前に「何か悪いことをしたのかなあ」と自問していた。そして当たり前だがこうした病の見方をしていると、実際に病気になった時、それそのものがもたらす辛苦に加え、自分自身を罪人としてみてしまうことの苦しみが生じてしまう。誤ったものの見方が人を苦しめるのだ。
●そして最近同じ生物学の「美しい生物学講義」という本で、ハッと思わされる記述に出会った。この本には考えさせられるところが多いが、特に次の文章に私は軽い衝撃を受けた。引用して見る。「単細胞生物である細菌は、一匹が分裂して二匹になる。基本的には、ずっとその繰り返しだ。もちろん環境が悪化すれば細菌だって死ぬことはあるだろう。」
●「でも、特にそういうことがなければ、細菌は永遠に分裂し続ける。つまり永遠の命を持っているといってもよい。生物が誕生したのが四十億年前だとすれば、現在生きている細菌は、四十億年ものあいだ細胞分裂し続けてきたのである。たとえ一回でも細胞分裂が途切れたら、それで終わりだ。その後に子孫を伝えることはできない。だから、現在生きている細胞は、みんな四十億歳だ。」
●一方で「私たちヒトは多細胞生物である。しかし誰でも最初は単細胞生物だった。人生のスタートは、受精卵というたった一つの細胞だった。それが細胞分裂をして、大人になれば四十億個もの細胞になるのである。細胞分裂をしていくあいだに、細胞は大きく二つの種類に分かれる。それは、子孫に受け継がれる可能性のある細胞とない細胞だ。」
●「たとえば、私の手は体細胞からできているが、私が死んだらそれでおしまいだ。私の手は、私の代で使い捨てなのだ。いっぽう生殖細胞は、使い捨てではなく子孫に伝えられる。すべての生殖細胞には、子孫に伝えられる可能性がある。すべての生殖細胞には、永遠のいのちを持つ可能性がある。」
●これを読んで私は、私の中に「永遠のいのち」を持つ細胞が今もあるのだと実感を持って感じることができた。それは進化の過程を通じて、先祖代々に渡って受け継がれてきて、私もまた次世代に受け渡したのだ。この身体の一部は「永遠のいのち」を生きてきた。そして私と隣の人は、40億年を遡れば、どこかの時点で同じ先祖(生殖細胞)から分かれたことになる。
●さらにこの生殖細胞は、分裂する際に遺伝情報のコピーエラーを少しだけ起こして、環境に適合できる多様な個体を作るようにしてきた。そのおかげで伝染病などが流行っても、かからない遺伝子を持つ人がいたりする。それによって生殖細胞はその人を通じて次世代へ受け渡され、永遠のいのちを生きることができる可能性が高くなる。
●このように生殖細胞が永遠のいのちを生きるためには、環境変化に適応できる遺伝的な多様性を確保しないといけない。だから隣人が私と違っていること(人種・価値観などを含めて)は、それが私から見て例え受け容れ難いように感じられたとしても、むしろいのちをつなぎ「永遠のいのち」を生きる可能性を高める祝福すべきこととなる。
●またこの身体を持つ私という立場から見ると、隣人は源を同じくする「生殖細胞」を受け継いでいくための同志と言えると思う。また源となった生殖細胞の目(それは今も私の中にあるのだが)からは私も隣人も、40億年のいのちをつなぎ、自分のコピー(一部の変化はあるにしても)を持って生きている存在として同じ「自分」と見るだろう。
●こうした見方をする時、戦争などは愚の骨頂と言えるだろう。永遠のいのちを生きる可能性を小さくするだけだからだ。今ウクライナで戦争が起きようとしていると報じられている。コロナという災害に見舞われ、それでなくても脆弱化している私たちのいのちにとって、戦争は大きな打撃となるだろう。みんなでいのちとは何なのか、問い直せればいいなと願っている。