●「ファクトフルネス」という本が2019年にベストセラーになった。これは私たちの悲観的な見方にもかかわらず、ここ数十年にわたって世界がより良くなってきたことを事実(データ)で明らかにした本である。私たちは昔学んだことをアップデートせず、ある種の思い込みに囚われているためそれが見えない。バイアスに囚われ、事実に基づいた見方ができないのだ。
●例えば著者は私たちが次のような先入観を持っていないかを問う。「世界では戦争、暴力、自然災害、人災、腐敗が絶えず、どんどん物騒になっている。金持ちはより一層金持ちになり、貧乏人は一層貧乏になり、貧困は増え続ける一方だ。何もしなければ天然資源ももうすぐ尽きてしまう」。実際の統計では世界の平均年齢は70歳を超え、世界の大部分の人は極度の貧困からかけ離れた生活をしている。
●戦争や自然災害による死者数は激減している。子供の数も平均が2人となり女の子も学校に行くようになっている。子供はワクチンを打ち、乳児死亡率は減少している。こうして著者は私たちにデータに基づいた世界の見方を紹介していく。そしてむやみにリスクを過大視し悲観的になることなく、持てる力を着実に世界をよりよくする方向に向けることを説くのだ。
●そのために著者は「ファクト」の観点から「現実に心配すべき5つのグローバルなリスク」を示す。
1、感染症の世界的流行 スペイン風の影響で世界の平均寿命は33歳から23歳へ縮まった
2、金融危機 バブル崩壊や大きな金融機関の破綻に伴う経済全体の壊滅のリスク
3、第三次世界大戦 世界をより安全にするには人間の関係が欠かせない
4、地球温暖化 大気のような地球の共有財産の管理には世界的な統治機構が必要
5、極度の貧困 内戦(戦争)は貧困につながり、貧困は暴力を生む
●この本はコロナ流行前に書かれたのだが、今まさにこれらのリスクは相互作用しつつ顕在化しているように見える。コロナの流行の中で人と人、国と国の関係が分断され、統治機構(政府など)への不満が高まっている。暴動やそれに対する抑圧が起きている。ウクライナの戦争もその流れが影響していると言えるだろう。世界は混乱し、気候変動に一致して立ち向かうことは難しくなっている。そして極度の貧困に陥る人も増える。
●そしていったんこうしたリスクが顕在化すると、この本で書かれた「思い込み」はより強くなる。犯人を探し糾弾する本能、敵味方を単純化して捉え分断する本能、リスクを過大視し危険でないことに恐怖を覚える本能、物事をネガティブに捉え宿命として諦める本能、今すぐなんとかしないとという焦りの本能などである。これらはいずれもリスクをエスカレートする方向に働く。
●そしてこうした「思い込み」に拍車をかけているように見えるのが、不安や恐怖である。今日たまたまある本に書いてあった「不安尺度」のテストをして見たが、何不自由なく平和に過ごしている私ですら、以前よりも不安の度合いが高くなっていた。コロナで身体的・経済的に脅かされ、紛争に巻き込まれている人の不安は私の比ではないだろう。
●こうした不安や恐怖があると、出来事を冷静に捉えることが難しくなる。例えば相手が本当に敵なのか、こちらに害をなす力があるのかなどを事実に基づいて確かめる余裕がなくなる。早くなんとかしないと、と先制攻撃をしてしまう。不安や恐怖に振り回され、思い込みを訂正するまもなく、破壊的行動を取ってしまう。
●ロシアによるウクライナの侵略はもちろん許されることではない。しかし戦争前、ロシアではコロナの広がりとワクチンの失敗の中で、大きな不安と恐怖が渦巻いていた。その際、どの国もロシアを助けようとはしなかった。その中でロシアの指導者たちは繰り返し安全保障についての不安と恐怖を訴えていたように思う。それが彼らを戦争へと駆り立てたのだ。
●こうしていったん戦争が始まってしまうと、悲惨で英雄的な物語が語られ、不安や恐怖は怒りへと変容し、より対立と暴力は激化しやすい。そして相手の不安や恐怖に目を向けることはますます難しくなる。しかし不安や恐怖は人類のリスクを増大させる働きをする火に注ぐ油のようなものだ。こんな時こそ、互いの不安を聴き、受け入れ合うことが必要な気がしている。