●今、ウルリヒ・ベックの「危険社会(1986) という本を読んでいる。昔の本なのに本当に今の世の中をよく表しているなと感じている。著者は貧困が一般的な産業社会では、富の分配が重要で、例えばマルクスのいうように労働者階級と資本家階級がそれを巡って争いをすることが社会の大きな特徴になっていたとする。
●しかし今ドイツなどの先進国では福祉的な施策が充実し、以前見られた極度の貧困や労働者階級の搾取などが少なくなった。これに伴い富の分配という産業社会の問題は重要性を失い、その代わりに現れたのが、危険(リスク)をめぐる問題であるとする。それはまず経済や社会に豊かさをもたらしてくれる科学技術が一方で、危険を作り出してしまう問題である。
●原子力発電は低コストで安定的に電気を供給してくれ、社会に大きな恩恵もたらすが、福島第一原発事故に見られるように、大きな危険も作り出す。ところでこうした科学が作り出す危険、例えば放射線の被曝や化学物質の汚染は、従来認識されていた昔ながらの危険と異なり、目に見えず、私たち自身ではどの程度危険なのかを判断できないという特徴を持つ。
●それゆえどこまで安全でどこからが危険なのかの線引きも科学に頼らざるを得ない。つまり科学を中心とする知識によって危険が定義され認識される。しかしどれだけ危険なのかなどの因果関係を科学的に証明することは極めて難しい。タバコによる健康被害や地球温暖化の問題が科学的にそれが「危険」として認められるのに長い時間がかかったのはそのためである。
●そしてそれが一旦危険と認識されると、それは政治・経済・社会に大きな影響を与える問題となる。だから社会としてそれを危険と認めるのかどうかが大きな問題となる。これが危険社会の特徴の一つである。また知識によって危険が認識されるということは、科学的素養があり知識を多く得られる人は多くの危険を認識できるということになる。
●こうした人々はある程度リスクを避ける行動や生活習慣を選ぶことができる。つまり安全な場所に住み、安全な食べ物を食べ、リスクを避ける生活習慣を築くことができる。しかしそれにはお金がかかることが多い。お金のない人は、危険を承知で危ない場所に住む必要が出てくる。ここに危険がどのように分配されてるかという危険社会に特有の問題が出てくる。
●またこの本にも書かれているが危険社会では私たち自身では判断できない危険が日々生み出され、学べば学ぶほど理解できる危険性が増える。放射能の危険、交通事故の危険、つまづいて転ぶ危険、マイクロプラスチックの危険・・・。そこには限りがない。だから決して安心することができない。むしろ多くの危険と向き合いながらどう健康でいられるかが課題となる。
●コロナ禍において「安心・安全」は社会的なキーワードになっている。これこそ危険社会において最も求められるものだ。しかしそれはどのように得ることができるだろうか。今社会においてその模索が続けられているように思う。例えば科学そのものを否定し、地球温暖化やコロナ自体をフェイクニュースと信じることで危険を見えなくすることもその一つと感じる。
●しかしダチョウのように(本当はそうではないらしいが)砂に頭を突っ込んで危険を見ないようにすることで、真の安心は得られない。またゼロコロナ政策のように政府や組織に頼り、命令に従うことで安心・安全を求めても、命令がなければ危険を避けられない人間になってしまう。今は個々人がまず自分なりの安心・安全を求める模索をする時期なのかもしれない。