●先月ウルリヒ・ベックの「危険社会」(1986) を紹介した。その時は本の概要をまとめ、「若者の生きづらさ」と関連した論点も取り上げた。しかしまだ私の中で消化された感じがない。そこで自分の中を探ってみると私はこの本の中に、これから生きる上でとても重要な示唆が含まれていると感じているようで、それがこの本が持つ歴史観にあることに気がついた。
●ベックは産業革命以降の数世紀を産業社会と位置付けている。歴史を振り返ると産業社会が成立する過程で、農地の囲い込みなどで労働者が生まれ、富の分配が極端に不公平になり、社会的な混乱と対立が起きた。また市場のコントロールなどが十分でないことから、大恐慌などの経済的混乱も生まれ、それが混乱と対立に拍車をかけた。
●私たちには、それが一定の値を超えると社会が一気に不安定化する「耐えられる閾値」のようなものがあるように思う。産業社会においてそれは貧困の度合いである。生きることが難しいほどの貧困に陥る人が増えると、混乱と対立は激化する。実際、産業社会においては古くは機械の打毀し、20世紀初めには共産主義やナチズムの運動が起きた。
●この社会の流動化は民族間や国家間の対立とも相まって、多くの破局的な出来事を生み出した。2つの世界大戦、アウシュビッツ、広島と長崎での原爆投下などである。そして第二次世界大戦の後、こうした破局を繰り返さないようする施策がとられてきた。多くの国で市場をうまく活用しながら野放しにせず、混乱が起きないように政府が管理する方法が採用された。
●そして年金や医療保険、失業保険、生活保護などのセーフティネットが整えられた。民族間や国家間の対立を調整する国際機関も設立され、ヨーロッパではEUという国民国家を超えた枠組みも試みられてきた。私たちは数百年の時間をかけて産業社会のもたらす弊害が「耐えられる閾値」を超えないように管理するすべを覚えてきたのだ。
●しかしベックによると20世紀の後半以降、この産業社会が危険社会に移り変わっている。前に書いたように産業社会を進展させてきた科学技術は同時に危険も生み出してきた。当初はそれは社会を進展させるための副作用として矮小化して捉えられていた。しかし最近になってその危険が実は人類にとって破局的な影響をもたらす可能性が認識されてきたのである。
●もう一度この危険(リスク)の特徴をおさらいすると、まず放射線のように目に見えず、私たち自身ではどの程度危険なのかを判断できないという特徴を持つ。どこからが危険なのかの線引きも科学に頼らざるを得ない。このように知識によって危険が認識されるということは、教育を受け知識を多く得られる立場の人は多くの危険を認識し回避できるということになる。
●このように産業社会の貧富の差の問題はなくならない。実際、お金のない人は危険を承知で危ない場所に住む必要が出てくる。危険社会では富ではなく危険の分配が問題となるのだ。ただし深刻な大気汚染や地球温暖化による気候災害、さらには原子力による災害などは貧富や階級の差なしに私たちを襲う。それは国境も民族も越えて世界中の人を等しく危険に巻き込む。
●また知識によって危険が認識される、生み出されるということは、マイクロプラスチックの問題のように、新たな知識が生まれるに従い大きな危険が突如として現れることにつながる。また学べば学ぶほど理解できる危険は増える。南海トラフから首都直下地震、津波、気候変動の危険から放射能の危険、交通事故の危険、つまづいて転ぶ危険・・。そこには限りがない。
●私には今、また私たちの「耐えられる閾値」を越えつつものが生まれているように見える。それは「不安」である。産業社会においては、極度の貧困が社会に混乱と対立をもたらしその変容を促した。今この危険社会において、極度の不安がそれらを引き起こしている。そして潜在的に社会の底流にあったものがコロナ禍の中であらわになってきているように感じるのだ。
●コロナの中でマスクやワクチンをめぐる混乱や対立が先鋭化し、それが激しかったアメリカでは100万人もの死者を数えるに至った。コロナ対策の失敗で多くの権力が攻撃を受け、政権交代や権力による民衆の弾圧が起こった。ウクライナ戦争もコロナによるロシア国民の不安の増大、人との接触への不安による指導者の孤立と関係していると考えられている。
●少子化もまた先の見えない不安から生じているようにも思える。4月に取り上げた若者の生きづらさにある人間関係上の問題も、居場所を失う不安から生まれている。そして危険の性質上、多くの場合私たちの個人レベルでは何とも対処できない。時には組織、国家レベルでもコントロールができない。そこから無力感が生じ、不安に飲み込まれてしまう感じが起きる。
●私たちは何世紀もかかって、産業社会における貧困と富の配分の問題を、「耐えられる閾値」内に収めることに成功した。ただこの危険社会における不安による社会の流動化はまだ始まったばかりである。そう考えると恐らくこれからこうした不安による混乱や対立はますます先鋭化していくと予想せざるを得ないかもしれない。
●ただこうして世界を見る時、私たちが取り組む必要のある課題も明確になる。その課題とは危険社会がもたらす不安を「耐えられる閾値」内に収めることだ。こうした方向性で考える時、ベーシックインカムなどの経済的な政策や集団安全保障の意味も再評価されるだろう。自然災害に世界的規模で対処しリスクを分散する枠組みなども新たに求められるように思う。
●つまり不安に飲み込まれず、正面から見つめ意識化し、それが「耐えられる閾値」を越えないように必要な時に対策をとるということが、個人レベル、組織レベル、国家レベル、国際間のレベルで必要となるのだ。これが実現するには今後数世紀かかるかもしれない。破局もあるのだろう。しかし今からそれぞれが各自の持ち場で取り組むしかないと感じる。