●今「不安」ということについて学び想いを巡らせている。コロナの問題で明らかになったように、危険が目の前に迫り不安が高まると、私たちにさまざまな影響を与える。特に個人では避けることも対処することもできない危険にさらされると、私たちは自分にできることはないと感じ不安とともにショックや怒り、無気力や諦めが生じる。
●こうしたことが多くの人に起こるので、不安は社会的に負のダイナミズムを生み出す。例えば危険を見ないようにし過小評価しコロナ対策を取らない、アジア人へのヘイトクライムに見られるようにスケープゴートを作って魔女狩りをする、反ワクチン運動に見られるような陰謀論が流行する、過激で狂信的な反応や政治思想が生まれるなどである。
●ウクライナの戦争もコロナと無関係ではない。民衆の不安が高まることは危険だ。多くの国で政権が交代したように無策な政治に対する怒りや抗議活動が高まるからである。こうして為政者は国民の不安の矛先を別のところへ向けようとする。他の対立にすり替えるのだ。こうして不安が生み出すダイナミズムによって人間的・人間関係的な災害(人災)が起きてしまう。
●コロナは嫌だがその危険は受け止めるしかない。しかしコロナが生み出す不安を原因とする人災は私たちにより大きな危険をもたらしているように見える。そして残念ながら、私たちの身の回りには多種多様な危険が存在している。気候変動、地震・噴火、次の感染症、科学技術の発達によるリスク・・、今の社会では人災を生み出す可能性のある不安のタネは尽きない。
●こうした中私たち一人ひとりにできることは限られている。しかし何もできないということはないように思う。私たちが危険に直面し不安にさらされた時、一人一人がどのように反応・行動するのかによって、社会的なダイナミズムは変わってくる。人間的・人間関係的な災害を引き起こす方向で行動するのか、それが起きないように行動するのか、それは大きな違いだ。
●こうして私は「不安」についての本を買って学んでいる。そして、その中の岸見一郎さんの「不安の哲学」という本を読んでいて、ハッとする文章に出会った。著者は本の中で哲学者である三木清の「愛と嫉妬」についての文章を引用しているのだが、それが奥深いところで不安がもたらす社会的ダイナミズムと関係しているように思えたからである。それは次の言葉だ。
●「嫉妬は性質的なものの上に働くのではなく、量的なものの上に働くのである。特殊的なもの、個性的なものは嫉妬の対象とはならぬ。嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。一般的なものに関してひとは嫉妬するのである。これに反して愛の対象となるのは一般的なものではなくて、個性的なものである。」
●この言葉について岸見は次のような言葉を添えている。「愛は自分も他者も個性として理解しているので量的なものとは関係がありません。「他ならぬこの人」を愛するのですが、嫉妬する人は自分の地位を脅かすかもしれない「誰か」を恐れます。ライバルが現れた時も、その人の個性ではなく、美とか若さとか言った一般性に嫉妬するのです。」
●この文章を読んで私は最近嫉妬という感情を体験していないなと思った。それは年をとったことが一因だとも言えるが、ラボラトリー体験学習を学んだ影響も大きいように思える。ラボラトリー体験学習では、”今ここ”で起きていることを大切に見つめること、その体験から学ぶことで自分らしく成長していく。まさに自分を個性として認めることが学びの目的なのだ。
●そしてこのことは他を個性として認めることにもつながる。ラボラトリーをしていると、最初はグループの一人に過ぎなかった人が、徐々にその人の色を持った掛け替えのないその人として認識されてくる。その人の属性にかかわりなく、その人が持つ欠点さえも、その人を構成する大切な個性として大切に思えてくる。
●こうした体験を積み重ねる中で私は、人を一般的に捉えることが少なくなったのだと思う。それによって嫉妬という感情から逃れることができているのだ。そしてこのことは人災につながるような不安による負のダイナミズムに巻き込まれることへの耐性も与えてくれていると思う。まず”今ここ”に起きていることから目を逸らさない訓練を与えられた。
●これは陰謀論や狂信的な思想から私を守ってくれている。また自分も人も個性としてみることで、ヘイトクライムや国家主義などの人災を生み出すダイナミズムからも守られている。こうして考えるとラボラトリーは私たちがさまざまな危険の中で生き残っていくためのすごく大切なことを教えてくれている一面があるように思う。