民主国家でのセニサイド〜コロナをめぐる考察

●9月の声を聞いて、私の住んでいる大阪ではコロナの新規感染者数がようやくピークを越え、減少傾向が出始めている。死者数はまだ減っていないが、身の回りの人が感染したということをこの一週間あまり聞かなくなり、随分と気が楽になってきている。楽しい予定なども考え始めることができていて、ようやく精神的に少しだけ余裕が生まれてきているようだ。

 

●逆に言えば8月はしんどかった。本当に深くて長い波で、死者数も増え、周りに感染者が次々に出るなど、結構ストレスのかかる1ヶ月だった。子どもの働いている塾や母がお世話になっているデイサービスでも集団感染が起きたし、私の支援している学校でも生徒やスタッフが次々と感染した。いつ家族の誰かが発症するだろうかと戦々恐々と過ごしていた。

 

●こうした中で、一番怖い思いをしたのが二週間ほど前のことである。母がお腹いたを訴え、下痢をした。若い人だと心配するほどではないが、母の場合、下痢をして電解質異常(低ナトリウム症)が起きると、途端にゲップが出て食欲をなくし、それによって塩分やカリウムがさらに足らなくなるという悪循環に陥る。昨年はこれで危うく入院する寸前まで悪化した。

 

●これを防ぐためには早めに点滴をする必要がある。しかし驚いたのだが、かかりつけの医者で、いつものように点滴をお願いすると「下痢の症状があるなら診れません」と断られた。コロナが流行している現状で、発熱がなくてもその恐れがあると判断されたらしい。結果的は大事に至らなかったが、その時は焦ったし、後になって腹立たしさが生まれてきた。

 

●今のコロナによる死者は、肺炎などが主因ではなく、コロナをきっかけに持病が悪化し、老人の全身状態が悪くなることによるものが多いと聞いている。しかし私の母のような「診療拒否」が続けば、コロナでもないのに全身状態が悪くなる老人が増えてしまうことになる。これは診療所のせいというより政策によるところが大きく、国に対して怒りが湧くのだ。

 

●致死率が高い株の場合は、医療者をも守るためこうした「診療拒否」もある程度仕方がないと思える。しかし、この株で母のような感じの患者を医療から締め出す必要性は本当にあるのかと疑問を感じる。むしろ死者数を減らすには症状が軽いうちに医者が診察し、診断して、適切な対処を早くする方がずっといいのではないか?なぜ私たちはそれができないのだろう?

 

●私は医療制度に詳しくないが、それ以外にも他の人を大切にできない理由があるのか?官僚制度が硬直化していて柔軟に制度を変えられないのか?それとも他の理由があるのか?最近ファーガソンの「大惨事の人類史」を読んでいて「セニサイド」(「老齢と病気に煩わされ、家族の重荷になり、同胞の役に立たない親を殺す子どもの権利」)という考え方を教えられた。

 

●ファーガソンは老人ホームでのコロナの死亡者数の多さを、民主国家でのセニサイドと位置付けている。そして私たちが今とっている、軽い症状のある老人を、コロナの危険を理由に医療から遠ざける政策は、まさにこの「セニサイド」に当たるように私には思える。私には今私たちがそうしているという事実に面と向かうことが大切なのかなと感じる。

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