●9月以降ブログを書くことができなかった。こうした文章を書くのは時間がかかる。また納得いくものにしようとすると、自分の中に湧いてきている感じに丁寧に目を向け言葉にして、何に対してどう感じているかを意識化する手間も必要となる。しかし今ようやく時間ができ、改めて今年のブログを読み返してみたのだが、これに取り組む意味を改めて感じている。
●例えば年初に書いた「「発達の論理」を超えた体験からの学び」(https://www.maholo-ba.jp/2022/01/07/発達の論理-を超えた体験からの学び/)では手段としてではないラボラトリーの意味を考察し書いている。そして今から思えばこれが、こうしたラボラトリーを6月以降企画し、11月に3年ぶりに実施していくことにつながったなと感じる。
●またこのラボラトリーができた前提としては、1月25日に書いた「“時”の存在を感じとれる体験」(https://www.maholo-ba.jp/2022/01/25/時-の存在を感じとれる体験/)が大きい。ラブの中で起こった一見理不尽な体験が、ある人の中で3年越しに学びにつながる様子を見て、ラブを開いていいのだという感じが生まれた様子が記録されている。
●2月に書いた「人間や世界、いのちの見方」(https://www.maholo-ba.jp/2022/02/12/人間や世界-いのちの見方/)は、自己概念についての理解を助けてくれた。これが下半期の研修で新たに「自己概念・経験・成長」についての実習や小講義を開発することにつながり、「今ここ」を大切にして自分らしく成長していくことの意味を共有しやすくなったと感じる。
●さらに「危険(リスク)社会3~不安による社会の不安定化」(https://www.maholo-ba.jp/2022/05/13/危険-リスク-社会3-不安による社会の不安定化/)では、個人や社会を混乱に導く不安の閾値があることも書かれている。これはまさに学んでいるレジリエンスにおいて、システムが崩れる際に閾値が重要となることにそのままつながる。
●不安が大きくなりある閾値を越えると、例えば個人では心理的安定に向けてバランスをとることができなくなる。それで心理システムを守るために不安を直視しないダイナミズムが生まれ、これがコロナの軽視や陰謀論などに走る要因になると考えられる。こうした理解は今後レジリエンスを高める取り組みを進める上で役に立つだろうなと思う。
●このようにブログは、書いたことを忘れていたとしても私を動かす力を持つように思う。ここでのポイントは恐らく意識化である。日々の体験、例えば本を読んだり、身の回りに起きるちょっとした出来事から生まれる感じを、きちんと言葉にして意識化することで、自分の歩みやいのちの流れを可視化できる。もしブログを書かなければ、無意識のまま流れてしまう。
●立ち止まって体験を文章にするのは時間がかかり無駄なようにも思うが、実際にはそれは体験から学ぶ過程、特に新たな仮説(想い)を明確にし、チャレンジを促す大切な道具となっている。還暦を過ぎもうあまり私には時間がないと思うが、だからこそこのブログは残り少ない時間を自分らしく大切に生きる上で不可欠の取り組みとして続けていかないとなと思う。