「クルト・レヴィンその生涯と業績」A・J・マロー要約

「クルト・レヴィンその生涯と業績」A・J・マロー要約

 

1、ドイツ時代

 

 レヴィンは、1890年9月9日、プロシア(現ポーランド)ポーゼン県に生まれた。父親レオポルドは雑貨店経営をしていた。フライブルグ大学、ミュンヘン大学、ベルリン大学などで哲学、科学理論、心理学を学ぶ。実験心理学の新しい時代に立つカール・シュトゥムプの下で卒論を作成した。

 1914年兵役に(16年学位取得)。戦傷を負う。1917年(戦後の国民生活の破たん時期)にマリア・ランズベルグと結婚。(女子高等学校で、ドイツ語と英語の教師)この時期にテイラーシステムを論じ「人は生産するために生きるのではなく、生きるために生産するのだ」と述べる。

 21年講師に(プロシアでは教授の地位にユダヤ人は登れなかった)。学生同士で討論しあう時間がいっぱい。弟子のドナルド・アダムスは次のように述べている。「人数は4~5人から10人。討論、出たり入ったり、思いつきの質問からはじまり、変化し、別のことを持ち出す。重要な最初の問題とはかけ離れたものが出てくる。レヴィンは支配的でも圧倒的でもなく、大胆な思いつきに対しても耳を貸そうとする。」

 レヴィンは、この時期、複合的なエネルギーの場としての「人間」に基づいた<場の理論>を展開した。そのベースには「心理的緊張の理論」がある。この緊張は「欲求や欠乏のある時に、自分の目標を達成しようとする個人の努力を増大させるのに役立つような、高度に望ましい状態」のことであり、緊張解消のために心的活動にエネルギーが与えられる。そして既に存在していた緊張が特定の対象に付着することで、運動体系を支配するとする。

 レヴィンは、人間が生活空間の一定の領域内にあるいくつかの目標にむかって、心理的な運動を起こす時のあらゆる心理的活動を場の理論に包括した。つまり力動的な場を創り出すものは、さまざまな事象の多様なデータであり、場の中ではすべての事実が互いに依存しあっている。

 そして行動は、人と環境の関数となる。人と環境は相互に依存しあっている変数。それはB=f(p、e)と記述される。つまりあらゆる行動(願望、思考、成就、努力も含まれる)は相互に従属する変数の場の所産であり、単位時間内における場のある状態に生じた変化の結果生まれてくる。

 そして生活空間とは、各個人にとってはその人の諸要求とその心理的環境からなり、すべての心理的できごとはこの生活空間から生じる。その人間にとって存在しているすべての事実(諸要求、諸目標、無意識の諸影響、記憶、信念、政治的経済的社会的な性質をもった諸事象も含む)を包含し、その人にとって存在しないものはすべて除外される。

 そして行動は過去や未来に依存するのではなく、「いま、ここに」に現存する場に依存する。もちろん心理的過去や未来(希望など)は与えられた時点に存在する生活空間の次元の一部を構成する。つまりレヴィンは、未来の目標や過去の行動が現在を決定するという考えを否定しているのだ。

 こうした場の理論に則ったレヴィンの学生の実験的研究による20の学位論文は、大きな革命を引き起こした。例えばブルーマ・ツァイガルニクは、「緊張を解消させる決定的要因は目標に到達すること」を検証。レヴィンの緊張体系の理論を実験室で初めて検証した。これはツァイガルニク効果(未完了課題の方がよく思いだせる)と呼ばれている。

 その後30年にドイツは、経済の凋落、ナチスの台頭、反ユダヤ主義を迎える。そしてヒトラーがドイツの首相になるとフリッツ・ハイダー(スミス大学)とハーバードのマッキノンにあて、仕事探しを依頼。ベルリン大学を辞任してアメリカに渡る。

 

2、アメリカへの移住

 当初レヴィンは、一時的に任命された亡命教授として、保育園児たちを対象とした食習慣に対する社会的圧力の効果を研究する。またパレスチナ移住問題を考える。現実にそれを成功させる方法を導きだそうと、アクション・リサーチとして知られる方法に関心を抱くようになる。

 その後、レヴィンはアイオワ大学へ移り、行動科学の理論と実践に新たな転回をもたらした。彼の問題意識の底流には、ヒトラーの存在があったと言われる、つまり「民主的な社会とはどういう人間共同体であるべきか?」を問う中で、民主的リーダーシップ、人間の成長のあり方を探っていった。

 この頃から彼の理論は、日常生活の人間的な問題に取っ組むための道具的な意味合いが強くなり、これがアクション・リサーチや集団力学へとつながっていく。そしてドイツ時代と同じく学生との話し合いの場を持ち、ロン・リピット、アルヴィン・ザンダー、エリック・ライト、ドーウィン・カートライトなど著名な人を育てた。

 またこの時代の実験的研究としては、独裁・民主制研究が有名である。これはロナルド・リピットが着想したもので、子どもの性格形成にあずかるリーダーの種類の変化がどういう影響を与えるかを研究した。

 そしてある人が民主型リーダーをやってみたが、実際には放任型になった。レヴィンはこれを見て、民主型と放任型が発生的に見て根本的な差があることに気付き、両者の相違のダイナミクスをより分析することとした。

 そして独裁的に指導された集団は、いがみあいがずっと多く敵意が強い、イニシアティブがとれない、集団の目標に無関心になる、他の仲間の利益を無視等の特徴が現れた。不満は多いが直接現れない。表面的には服従している。独創性は低く、弱い者いじめが起きる結果が出た。

 また放任の雰囲気では、仕事本位の行動、話し合い行動が他の2つよりも少ない。弱い者いじめが生じる。これは集団作業にはどうしても基本ルールが必要なのだという感じを少年たちが持っているが、それがうまくいかないために起こると考えられた。一方、民主的に指導された集団は友好的で仲間意識が強い。

 このようにこれらの実験では、集団の雰囲気と集団の個々の成員の緊張水準との間に直接の関係が存在し、社会的雰囲気が彼らの相互依存の感じや、相互作用の感じにどのような影響を与えるかが明確になった。

 レヴィンはこう語っている。「独裁的状況と民主的状況における行動の差異は個人個人に差異があるために生じたのではない。独裁的リーダーに当たるとほんの半時で、無感情のやる気のないただの人間の集まりになる。独裁制から民主制への変化は、より時間がかかる。独裁制は個人の上におしつけられる。が、民主制は学ばねばならない」

 この研究は後に「アクション・リサーチ」=実験的手段によって社会科学を民主的過程の前進に役立てようとする研究への足がかりになった。また彼の有名な言葉「よい理論ほど実際的なものはない」もこの時期のものである。これは「理論は前もって体系的に詳述されるようなものではなく、データの展開につれて発展し精密化していく。データと理論は互いに他を育て合い、研究を導く。理論がよいものであれば、それ以上実際的なものはない。」という意味で語られている。

 またこの時期、マーガレット・ミードとの協同研究で、どうしたら国民の食習慣や食物の嗜好を変えられるか、新しい栄養学の知見を取り入れるようになるかを研究した。主婦たちが臓物を食べたりする学習を進める実験を行い、次のように結論している。「人々の集団は自らの意思で決定した時のほうが、作業の成績がよく、態度と実際の行為との間のギャップをなくす方法を自ら選択した時の方が作業の成績が良い。」

 

3、産業におけるアクション・リサーチ

 また著者のマローが役員を勤める工場でのアクション・リサーチが行われた。300人の未経験労働者を訓練して北部工業地帯の水準まで上げようとしたのである。しかし12週間の訓練後も生産は半分未満にとどまり、レヴィンが招かれ8年間にわたる研究が行われたのである。

 その時の状況として、賃金は他より高く、仕事に好感もあるのに転職が多い。ありとあらゆる報奨制度を試みるが大した改善なかった。目を離さずに監督しても、やめていく労働者を増やしただけに終わった。これを見たレヴィンはその理由として、会社が示した生産目標が、彼らには到達不可能なものに思われたこと、このため目標達成に失敗しても失敗感は全くなかったことをあげた。

 その後、いろいろな試行錯誤が行われた。監視の圧力を加えるのをやめたり、労働者を個人としてではなく、小集団のメンバーとして扱ったりした。その後、生産の標準目標に現実感を与え、達成可能であるという気持ちを集団に与えるための方法を見つけた。こうして労働者の信頼を獲得していった。

 

 また1、従業員自身に生産量の統制権を与えた際に従業員の及ぼす影響

   2、従業員を参加させて彼らに生産目標を立てさせる機会を与えた時の効果

を調べるための先駆的実験も行われた。ここではまず、生産性の高い作業者からなる小集団ミーティングを週数回開くところからスタートした。そして生産を高める際に直面する困難について、一人ひとりが自分の意見を出して話し合うように奨励された。

 そして集団としての毎日の生産量をどのくらい高めるかを集団が決定することとした。結果は最高水準まで生産が上昇したのである。「動機だけでは変化を起こすだけの十分な力をもたない。動機を行為に結びつけるのは意思決定の働きによる。わずか数分しかかからない意思決定の過程が、その後数か月の行為に影響する。だから意思決定の働きには『凍結』作用があるが、この凍結効果は、各人が『自分の決定に執着しよう』とする傾向と、『引き続き集団にとどまろう』とする傾向の産物である。」

 同様の実験は作業方法や仕事の運び方の変化に対して、労働者が強く抵抗した時にも行われた。大きなモラールの低下が見られたが、変化に労働者を参加させる方法によって解決できるのではと考えられ、実験が行われた。結果として集団が示した動機とモラールは明らかに参加の程度に比例したのである。

 このように実行によって世界を変えることに重点をおきながら、同時に科学的知識の進歩に貢献する実験と応用の結合をアクション・リサーチと呼ぶが、レヴィンはユダヤ人問題をはじめ多くの問題で、このアクション・リサーチを志向するようになる。

 

4、MITにおけるレヴィン

 その後、レヴィンはMITの集団力学センターに移り、あらゆる集団に適用される一般理論構築(リーダーの選択、集団的雰囲気、集団の意思決定、メンバー相互のコミュニケーション、集団基準の成立)を目指した。こうした集団行動は個人と社会的状況との関数であり、パーソナリティだけでも社会的状況の性質からだけでも説明できない。

 もともと集団力学はリクリエーションの専門家が経験的に知るにとどまっていた。しかし当時進歩的教育を主張するデューイが集団行動研究の重要性を主張しはじめていた。また、企業のみでなく行政・教育・医療など大規模組織における人間の管理や操作においても集団が重要であることが知られていた。こうした領域が互いに関係し合い重なり合って一つの研究領域として形をなしたとき「集団力学」が現われたのである。

 この集団力学とは人間集団のなかに働くプラスおよびマイナスの力を扱う学問である。集団には個々のメンバーの行動を変化させる力がある。そして集団が個人に対して与える影響は悪いものもあるし良いものもある。集団としての行動の原理がよく理解されれば、社会が望ましいと思う方向に集団を役立てる方法も明らかになるだろうと考えられた。

 39年にはグループ・ダイナミクスという術語が用いられた。集団の中にいるおのおののメンバーは、他のメンバーのことを、自分が一定程度その人に依存している人間であるとみなす。だから集団は単なる個人の集合体ではなく、心理的にまとまりをもった全体なとして考えられる。

 これ以降集団力学の論文が次々に生まれていった。例えば「非常に魅力ある集団は強い圧力でそのメンバーを圧迫するが、魅力の弱い集団はメンバーを鋳型にはめる力をあまり持たない」、「集団の目標や物の見方に何らかの変化をおこさせるためには、集団の均衡状態にある変化が生じることが必要で、この場合個々のメンバーにはたらきかけることはほとんど効果がない。」、「集団が一定水準を決めた時、一人が底から離れようとすると一緒に働いている労働者の社会的圧力が、その従業員の行動をみんなと一致する方向に押し戻させる。彼が基準から隔たっているほど、同調させる圧力も強くなる。」などである。

 その後、MITに集団力学センターが作られた。1つは科学的な必要、1つは実用的な必要からである。例えば彼は次のように言っている。「経営管理は社会生活のあらゆる面にみられる合法的で、最も重要な機能の一つ。でもマネジメントの問題には、民主主義におけるリーダーシップ、権力の問題と同じく、多くの人に疑惑を抱かせる要素がないわけではない。・・私たちはあらゆる集団の本質的側面として、権力の問題があることをはっきりと認識すべきである。権力の持つ合法的な面と、非合法的な面についてよりよい洞察を与える点で社会的研究は貢献しうる立場にある。」

 

 またレヴィンは集団生活を記述するだけではなく、集団に変化をもたらしたり、集団がその変化に抵抗したりする条件や力を研究した。マリアン・ラドケ、フェスティジャー、リピット、カートライトなど35歳以下の特有の専門知識を持つスタッフを招聘した。彼のスタッフ間に対人的な競争心が見られなかったと言われる。それは彼らが使命の重大さを感じているため、集団の凝集力がまし、相互葛藤、役割葛藤を低減させたからと言われる。

 研究領域は多彩に渡り

①集団の生産性 集団の能率を決定する要因

②コミュニケーションや社会的影響の伝播

③コミュニケーションと密接にかかわる社会的知覚

④集団同士の相互関係

⑤集団への所属性と個人の適応

⑥リーダーの訓練と集団機能の改善等に及んだ。

 

5、社会問題への取り組み

 また彼は45年に地域社会問題委員会を創立し、アクション・リサーチを用いて偏見などと闘うための活動を開始した。その時次の3つの領域に焦点が絞られた。

①集団の相互関係を改善しようとしている地域社会リーダーがより効果的に活動する条件。

②さまざまな集団から集まってきた人たち接触が起きる場合、その時の条件がどんな効果を持つか。態度の改善や調和的な関係が成立する時の条件。特定またはすべての集団への友好的感情が起こる条件。偏見ある環境で持続的な好意的態度が生じる条件。

③少数者集団のメンバーの所属感を高めるために、もっとも効果的な影響力は何か。少数者集団のメンバーの個人的適応を改善し、他の集団に属する個人との関係を改善するためにもっとも効果的な影響力は何か

 

 こうした社会問題に取り組む時、研究が実績を上げるまで待つこと出来ないこともある。つまり問題解決が仮説にたよらざるおえない時もでてくる。この際の指針として彼は4つのアクション・リサーチ計画に言及している。

1、診断的なもの 現に進行中の状況に飛び込み問題を診断して、処置法を打ち出す方法

2、参加的なもの 問題の渦中にある地域住民が研究過程の中に参加する方法

3、経験的アクション・リサーチ

 毎日の仕事の中で経験される事実を記録にとり、それを集積していく方法

4、実験的なもの 非常によく似た社会的状況の中で、いろいろな技法の相対的効果性を、統制的に研究する方法

 

 そして実際に5年間に50もの計画が立てられ、4つのアクション・リサーチが行われた。例えばカトリック系の非ユダヤ人(イタリア系)の若者が、ユダヤ人教会を襲うというギャング行動が最初のアクション・リサーチの対象となり、ギャングはもっと地域社会に受け入れられるような行動を学習できる、ギャング集団のエネルギーを建設的な活動に向け直すことはできるという結果を明らかにした。

またあらゆる宗教の人に開かれた公共住宅の提供が、人種間の恐怖・憎悪の解毒剤になるかどうかのリサーチも有名である。そしてチェス盤の目のように黒人と白人を別々に住まわせるパターン、申し込み順に無差別に住まわせるパターンを試した。結果的に分離住宅の場合、黒人への憤激や偏見著しく高くなること、無差別型の場合、共通の人情、友好的な感情を育み、ますます無差別型を愛好し心からの隣人になることがわかったのである。


 

6、Tグループ(ラボラトリー・トレーニング)の起こり

 こうした中、感受性訓練―Tグループ(ラボラトリー・トレーニング)が生まれた。1946年コネティカット州人権関係委員会が、地域社会の人種的・宗教的偏見と戦うための効果的手段を模索したが、うまくできずレヴィンに援助を求めた。そして新しい指導者訓練計画に手を染めたのである。

 そしてここでは「条件変化実験」が行われた。つまり訓練を受ける者に生じてくる変化が、なぜ起こるのか、何の為に起こるのか、その理由を観察した資料を集め、その範囲を測定し、その結果を分析するというものである。

 レヴィンの指導のもと、訓練者と観察者と研究者から成る大きなチームが生まれた。中心はリピット、リーランド・ブラッドフォード、ケネス・ベネなどである。そして教育者、社会事業機関の41人の研修に2週間行った。半数はユダヤ人と黒人であった。全員が参加する話し合いで、これからどうするかをきめる計画でスタートした。

 夜にはメンバーは家族のもとへ帰ったが、残ったものは、訓練グループの観察中に集めた未整理の資料について報告するフィードバック・ミーティングに参加するように勧誘された。このように自分たちの行動について論議されている場所へメンバー自身が参加するのは、悪い結果になるではと心配するスタッフもいたが、レヴィンは「研究者だけがデータを私有する理由はない。訓練を受けているものにフィードバックすることが役に立たないと考える根拠もない。」と主張し、実施されたのである。

 そして人々は、巨大な電力によって充電されたように(ブラッドフォード)自分たちの行動に関する資料に反応した。リピットはこう述べている。「ある晩、観察者の一人がミーティングに参加している3人のメンバーの内の一人(女性)の行動について、何かしゃべったことがありました。するとその女性が口をはさんで、その観察には反対だといって、自分の見方とその時の状況を話しました。そこでしばらくの間、研究の観察者と訓練者とメンバーとの間で、その時の状況をどう解釈するかについて、活発な問答が行われましたが、レヴィンは明らかに出所の違うデータがどう処理され、どうまとめられるかを楽しみながら探究者の役割をしていました。」

 

 当初は3人だったが、翌日のミーティングには30人くらい参加。話題の中心は実際の行動が何であったかということであり、同じ訓練状況に参加した人たちが同じ事態について、違った解釈をし、違った見方をすることについて、活発な話し合いが行われた。こうしてこういう話し合いこそ資料を確かめ、行動を解釈する独特のやり方であり、フィードバックのおかげで、参加者は自分たちの行動に対して敏感になり、健康で建設的な批評が堂々とおこなわれるようになると考えられるようになった。

 そしてこれがきっかけに、47年にNTL(ラボラトリー・トレーニングを行う教育機関)が創設された。ワレン・ベニスは「現代社会のあらゆる社会的組織に対して影響力を持つ、国際的に承認された有力な教育機関となった」と述べている。またロジャースも「感受性訓練は、おそらく今世紀のもっともすばらしい社会的発明である」と述べている。しかしレヴィンはその結果を見ることなく47年7月にこの世を去ったのである。

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