パウル・ティリッヒ『生きる勇気』(1995「The Courage to Be」1959)の要約

1、存在と勇気

 

 「生きる勇気」とは、人間がその本質的な自己肯定に反逆する諸要素に抗してかれ自身の固有な存在を肯定する倫理的行為である。それは「それにもかかわらず」の性格を持つ。つまりわれわれの一部であるにせよ、それを犠牲にすることなしには到達できない。例えば、勇気の最大の証明はいのちを犠牲にする覚悟である。

 

 ストア主義は哲学であるとともに、古代末期の高潔な人間や近代のその後継者たちが、運命と不安を克服してきた生き方であり、1つの宗教的態度と言える。キリスト教と古代宗教には、共通の基盤がある。それは神的存在が救済のために天からこの世に降臨したということである。運命や死に対する不安は、それを引き受けた神的存在に人間が参与することで克服できるとする。こうしたキリスト教は、古代の宗教哲学的要素を多く同化した。しかしキリスト教はストア主義を同化できなかった。こうしたストア的勇気に永続的力を与えた出来事は、ソクラテスの死であり、運命と死に直面する人間の状況をあらわに示すシンボルであり、その勇気は、人間において理性が支配することに基づいている。ここで言う理性とは、一般的論理や数学的論理での推論、判断ではなく、ロゴス(現実全体の意味構造や個人の人間精神の意味構造)を指す。

 

 このストア的勇気は<存在への勇気>と言える。<存在への勇気>とは、すべて単に偶然的なものに抗して、自己の固有な理性的本性を肯定することであり、人格の中心にかかわることである。人間は不安を論証によっては克服できず、普遍的理性によってのみ可能となる。つまり人格の中心をして、存在のロゴスに服せしめることである。この知恵の勇気に対立するものは、われわれの中にある欲望や恐れである。ストア主義者は恐れるべきものは、恐れ自体のほか何も存在しないという。不安がすべての事物や人間の上に恐れを引き起こす仮面をかぶせる。仮面をはぎ取れば、本来の素顔が現れ、それが引き起こした恐れも消え失せる。例えば死の恐怖が典型である。

 あらゆる欲望や不安に抗して自らの本質的存在を肯定することは、喜びを生み出す。セネカは「喜んでいることを学ぶ」ようにすすめる。これは欲望充足の喜びではなく、われわれの真正なる存在を肯定すべき勇気ある「然り」の情緒的表現であり、ここに勇気と喜び結びあう。

 こうしたストア主義の限界は、いかにして知恵の勇気が可能になるかである。知恵を与えられるのは、極めて少数のエリートで、大衆は欲望と不安にとらわれた愚者である。本質において神的ロゴスに参与しているが、でも現実は彼ら自身が自分の理性に矛盾し、自らの本質的存在を肯定できていない。

 

 こうしたストア主義は、救済の理念に支えられる中世的体制が崩壊する中で、新ストア主義として再登場した。例えばスピノザは『エティカ』において、存在への勇気とは、本質的行為としての自己肯定であるとした。勇気とは、各個人が理性の指図のみに従って各自の存在に固執しようと努力することである。ところでスピノザの自己肯定は他者への愛を含む。自己肯定とは神の自己肯定への参与であり、精神が「永遠の相のもとに」自己を知る限り、精神は自らが神の中にあることを知る。つまり完全な自己肯定が個別的行為でなく、個別的行為がその力をそこから持つような普遍的、あるいは神的な自己肯定の行為への参与であるとする。従って自己肯定はそれぞれの存在の本質的本性であり、最高の善である。また欲望や不安を克服する力は神の自己愛への精神の参与のあらわれであり、ここで存在への勇気が可能になる。

 ただもう1つの問題が「なにゆえスピノザが示した救いの道が多くの人によって受け容れられないか」である。自己肯定とは、自己を脅かしたり、否定したりするような何ものかを克服することである。スピノザは万物が永遠的実体の本性から必然的にでてくる、つまり<万物がそれがあるようにある>とする。しかしそれを現実的に脅かすものがある。そこに自己実現の力が必要となる。

 

 またニーチェなどの「生の哲学」の「生」とは、スピノザの実体概念を生の概念に置き換えたものといえる。それは存在の力がそれ自身を実現していく過程のことで、生は、生そのものの中に潜む生を否定するもの(反抗への意志)を克服する。つまり否定するもの(例 死、病、老)を受け入れて生を否定するのは臆病であり、自己肯定とは生の肯定であり、生のものである死の肯定でもある。その自己肯定が徳である。自己肯定は自己否定を含む。それは最大限の肯定のための否定である。生は創造し、そして創造したものを愛する。やがてそれは生に敵対する。自分自身を超克することを意志する生は勇気ある生である。その魂はいっさいの臆病なもの、卑怯なものを遠ざける。これは屈従とは違う。例え神に対する屈従でもそれは自己肯定ではない。この精神は自己糾弾、罪責意識の核心をなす「復讐」、「和解」を超越し、生それ自体と統合する。

 

2、不安の3類型

 

 勇気とは、「それにもかかわらず」自己自身を肯定することであり、それを妨げるものに抗して、それにもかかわらず自己を肯定することである。つまり無(存在を否定するもの)の問題を考察しなければならない。無は最も困難な議論の1つである。ヘーゲルはこの否定性を自然と歴史の動力と考えた。ハイデカー、サルトルの思索の中心に無があり、聖書的宗教の教理の中で悪魔的な神に背く原理が決定的な位置を占める。

 存在は<存在それ自体>と<無>との両者を包摂する。つまり存在はそれ自体の内部に無を持っている。万物の根底には生ける創造性がある。運動や生成を持たない、死んだ同一性ではない。それ自身の中にある無を永遠に克服しつつ、創造的にそれ自体を肯定する。こうした存在の根底は、あらゆる有限な存在における自己肯定の原型であり、存在への勇気の源泉となる。

 

 勇気とは、一般的には恐怖を克服する精神の力と言われる。恐怖は、一定の対象を持つ。それに働きかけることができる。勇気は恐怖の対象に対抗できる。対象を持つ限り、その対象への参与という愛は恐怖を克服できる。一方不安は、存在が非存在(無)でありうる可能性を自覚している状態、無が人間存在の一部であるという自覚である。つまり不安とは、それが自らのものとして経験されたところの有限性の自覚(死すべき人間)である。この不安は対象を持たない。死の不安は不安である限り、それは認識の対象にならない。人間はそれ自身の存在を保持することができない。それは虚無の脅かしであり、永遠の死に関連する。対象への参与も闘争も、愛も不可能であり、何の助けもなく、その不安の中に引き渡されている。

 ところで無は、それが否定する存在に依存している。存在なしに無はない。そして存在との関係で無は性質を得る。無が存在を脅かす不安の3類型を区別することができる。

(1)絶対的には死、相対的には運命という形で存在的自己肯定を脅かす

(2)絶対的には無意味性、相対的には空虚さで人間存在の精神的自己肯定を脅かす

(3)絶対的には断罪、相対的には罪責という形で人間存在の倫理的自己肯定を脅かす

 

 第一に死は不可避であり、人間の自己の完全な喪失を意味する。私たちは消滅を免れる一瞬の時も持たない。人間はそれでも自分自身を肯定する勇気が必要となる。この死の不安は、その内側で運命の不安が作用する。運命は、時空の偶然性、歴史的偶然、深層心理的偶然によって決まる。運命という偶然性の支配は、無の脅かしの相対的現れであり、背後に死という絶対的なものがあり不安を生み出す。

 

 第二に無は人間の精神的な自己肯定をも脅かす。意味の領域で創造的に生きると、精神的自己肯定が生起する。無が精神的生活を脅かす絶対的形式が無意味であり、相対的形式が空虚である。無意味の不安とはすべての意味あるものに意味を与える意味、つまり究極的関心を喪失する不安である。どの対象も意味を失い、何一つ満足を与えない。  

 この無の脅かしは、懐疑という人間の有限性の中に潜在している。人が問うことができるのは対象に参与しつつ離れているからであり、あらゆる問いの中に懐疑の要素、つまり持っていないという意識が含蓄される。精神的生活の脅かしとしての懐疑によって、持っていない意識が持っている意識を飲み込む。真理に対する絶望が全般になる。

 これを防ぐためできる限りいままでの伝統、好み、確信を維持しようとし、自分自身を放棄し自由から逃走し、何かと同一化し意味を救おうとする。これが行き過ぎると人格的自己は犠牲になり、狂信的自己主張の傾向が生まれる。狂信的熱狂を持つ人は、自分の中に抑圧した不安を呼び起こす人々を、並外れた激しさで攻撃する。

 

 第三に無は人間の倫理的な自己肯定を脅かす。その相対的な形が罪責の不安、絶対的な形が断罪、つまり自己が拒斥される不安である。人間は、有限の中ではあるがなるべきものになるよう、運命を成就するよう求められる。倫理的自己肯定において、潜在的なものの顕在化のため力を尽くす。しかし人間にはそれに背いて行為する力がある。

 最善の行為と考える善行にも無が顔を出す。完全さを妨げる。この善と悪の間の深刻な曖昧さが、人格存在の中に浸透し、無が存在の中に混入する。この曖昧性の自覚が「罪責感」を生む。われわれがなし、かつ在るすべてのことを「共に知っている」われが審判者として否定的な判断を下す。これが罪責である。

 これは倫理的自覚のあらゆる瞬間にでてきて、われわれを完全に拒斥するような断罪の感情へとかりたてる。これは自己の運命の喪失における絶望を生み出す。このため人間は、この不安を勇気を持って自己肯定の中に引き受けようと、無律法主義の方向か律法主義の方向に向かう。ただどちらも罪責の不安をその背後に秘めている。

 

 不安の3類型は、相互に入り組む。1つが優勢に現れる場合、他の2つも参与している。この3種の不安は絶望を引き起こす。無が絶対的勝利を占めると感じる。無の苦痛の中で無の力に打ちひしがれて自己自身を肯定できない自己を自覚し、存在そのものを放擲しようと欲する。ただ自殺によっても罪責と断罪の絶望からは逃れられない。キリスト者は、自殺では罪責と断罪の不安から存在論的に解放されないことを知っている。つまり絶望から逃れられない。このように人間の生とは、絶望を避けようとする絶えざる試みと見られる。

 ところで古代末期は、存在的不安が優勢であった。個人のコントロールや計算を完全に越えた政治、自然的諸力がどうにもならない感情を生み出し、運命と死の脅かしにどう対処するかという勇気の問いが生じた。また古代末期の懐疑主義は思惟においても行為においても正しくあり得る可能性に絶望し、決定を下す必要性を最小限に引き下げた判断中止へと導かれた。そしてユダヤ=キリスト教的使信の影響だけが上記の状況に変化を与えることができたのである。

 一方、中世末期は罪責と断罪の不安が決定的に(宗教改革前夜と宗教改革の時代)なった。神の怒りという象徴は断罪の不安、地獄の光景によって強化された不安を表している。不安緩和の行動として巡礼、禁欲、苦行、免罪符、祈祷、寄進が行われ、「私はどうして神の怒りを和らげることができるか。罪のゆるしを得られるのか」が問われた。中世末期の罪責と断罪の不安の表出の原因は、宗教によって導かれた中世文化の統合という精神的守護が崩れたことにある。中間層の上昇によって、教会の権威による保護から、ひとり一人の主体的経験が重要となり、教会との矛盾が生じた。政治権力の中央集権化、国家絶対主義による臣民の登場、経済的破局も拍車をかけた。宗教改革の不合理、絶対の神は、絶対主義の台頭に背景を持つ。崩壊しつつある中世の根底的な社会的矛盾で引き起こされる不安の1表現と言える。

 近代末期は、精神的無の不安、つまり空虚と無意味の不安が生じた。絶対主義の瓦解とリベラリズム、民主主義の発展、技術文明の勝利がその原因である。3つの主要な不安の時代は、各時代の末期に現出した。それは日常構造と化した意味、権力、信仰、秩序の構造の崩壊で顕在化した。確固とした構造は、勇気が有効に働く守護となる。それに各個人が参与することで、不安は押さえ込まれる。

 体制における制度や生活の仕方に参与する個人は個人的不安からは解放されないが、その体制における周知の方法で克服できる。しかし大きな変化の時代には通用しなくなり、無が顔を出す。それは人間が無に帰してしまう狭隘の不安、つまり逃げ出せない(出口なし)わなにはまったという形と、人間が無に帰してしまう拡散の不安、つまり無限で形がない空虚に陥るという形がある。

 

3、病的不安と生命力と勇気

 

 勇気とは、無の不安を自分に引き受けることである。無にもかかわらず、自己自身の存在を肯定することであり、それができないと絶望に陥る。それができない時、ノイローゼの中に逃避することで、絶望という最後決定的状況を回避することがある。ノイローゼとは、存在を回避することによって無を回避する方法である。ノイローゼ的人格は無に対する大きな感受性と深刻な不安ゆえに、固定された(制約され非現実的でも)、矮小化された自己肯定にしがみつく。自分を守る城を築く。

 普通の人間は恐怖の対象や勇気を持って絶望を回避している。深層にある無や不安を意識せず、自己肯定も確固たるものではない。出会う現実の諸部分との結びつきで彼自身を肯定する。それゆえ歴史的転換の中では不安でゆさぶられ、現体制を必死で守ろうとする。1つの時代の終末期にあらわれる集団ノイローゼはこれが原因である。

 運命と死の不安の中での安全性の欲求は病的でない。あらゆる文明がそれを試みている。病的なのは牢獄の中の安全を求めることである。また罪責と断罪の不安は病的でなく、自己を道徳的に訓練することにつながる。病的なのは責任を負う決断や倫理的行為ができなくなってしまうことで、最小限の範囲内で絶対であろうとすることである。空虚と無意味の不安においても懐疑は病的ではなく、伝統と権威に支えられた意味体系の確かさを作り出すことへつながり、不安を抑止する。病的なのは、小さな確かさの城を構築し、現実に即さない狂信的拒絶を行うことである。

 

 恐怖や不安のない有限的存在はない。勇気とは、恐怖の中で予感される否定的なものを自分自身に引き受け、それをさらに充実した肯定性に引き上げる用意のあることであり、強い生命力とは恐怖や不安の危険を感知しながらもそれに抗して自己自身を肯定することである。

 生命は、恐怖と勇気の両者を生の過程、つまり変化しながら本質的に安定したバランスを保つ過程を持っている。存在への勇気は、生命力の1つの機能であり、ノイローゼ

のような生命力の減退は勇気の減退につながる。不安の3つの時代は、生命力が減退した時代であり、これを克服する強力な生命力を持つ社会集団の登場で克服される。

 人間の生命力は、意味への関係から切り離せない。その意味志向性に比例して大きくなる。人間は意味の中に生きている存在であり、言語によって所与の事物の束縛から解放される。生命力とは、自己自身を失うことなしに、自己を超えて創造するところの力である。生命力と意味志向性の統合が必要となる。

 

4、勇気と参与

 

 人間の自己肯定の2側面として、まず「自己自身として生きる勇気」がある。自己肯定の主体は、その中心に自己に収斂する自己、独自で1回限りの代替不可能な個であり、ここではおのおのの人間が無限の価値を持つ。次に「全体の部分として生きる勇気」がある。自己は全体に所属し、また分離している。また全体から分離していながら、なおその部分である形で参与している。自己が個的自己として自己を肯定することは、自己がそれに参与している全体を肯定することである。これらは本来相互依存的なものだが、人間の有限性の中で相互孤立化が起きている。

 

 全体の部分として生きる勇気は、自己自身の存在を参与によって肯定する勇気であり、そこに所属し同時に分離しているその世界に参与する。具体的には人間は直接参与している共同体を通して世界に参与する。全体の部分となる勇気を持つ人間は、参与している共同体の一部分として自己を肯定する。

 集団主義的社会とは、個人の存在がその集団の存在と諸制度によって規定される社会で、ここでの個人の持つ勇気は、全体の部分として生きる勇気である。原始社会では典型的な不安の諸形態を克服する勇気の表現として伝統や諸制度がある。例えば苦痛、さらには死を引き受ける勇気を試すものであり、これは集団の生命力テストとなる。

 集団との完全な同一化は、自己自身の喪失でもあるが、不安の解消にもなる。諸個人の罪責意識は、その集団の制度や規則からの逸脱の意識として存在する。伝統や諸象徴は真理と意味を体現するもので、それへの主体的問いかけは存在しない。中世における勇気も家臣であること、ギルドの一員であることによる自己肯定である。

 ただ原始社会との差異として、人格的罪の発見と何にもとらわれないで自主的に問いを発することが起こった。これと共に罪責と断罪の不安、懐疑と無意味の不安が入り込んだ。こうした罪責の不安はサクラメンタルな共同体の一部になる存在への勇気の中に引き受けられた。しかしこうした懐疑は教会への参与の体系を崩す契機となった。

 

 ファシズム、ナチズム、コミュニズムは新しい集団主義である。これまでのものと違う点として(1)科学技術の発展の利用(2)それ以外の対立的諸運動と競合によって安定性と安全性に欠けること(3)中央集権によって個人の決断の抑圧が必要なことがある。共通点は全体の部分となる勇気を特別に強調していることがある。

 新しい集団主義が持つ世界史的意義は、自己肯定、勇気の存在論の視点が必要である。それは増大する無の脅かしと不安に打ちひしがれる人々に与えた全体の部分となる勇気である。伝統的な生活様式が与えてきた勇気の崩壊の中で集団の大義に身を投げ出すことは、犠牲でなく、生の完成と感じられる。

 つまりそこに参与する限り、運命と死は自分の一部であるそれを破壊できない。これは死の超越であり、ストア主義と同一である。集団の自己肯定の強さは、疑いを現実化することを防ぎ、無意味の不安を抑える。つまり人生の意味は集団が持つ意味に吸収される。罪責の不安は集団が神になることで、懺悔、ゆるしが起きることで克服される。

 

 一方アメリカなどでは1930年代以降、体制順応(コンフォーミティ)が増大した。これはルネサンスにおける新ストア主義に影響を受けている。そこでは人間の潜在的可能性は無限であり、人間はミクロコスモスで宇宙的諸力が潜在していると考えられた。宇宙は創造の中心として人間を作り、人間によって創造の過程を継続する。人間は大宇宙の創造的過程への参与者なのである。現代の進歩は潜在的なものを顕在化、現実化する動きに他ならない。自然や歴史の創造的過程に参与しその部分となる存在への勇気は、アメリカで発達した。

 こうした勇気は全体の部分として生きる勇気の一類型であり、その意味は、生産的行為それ自体の中に現れる。生産それ自身が無限性のシンボルであり、歴史の創造的過程への参与(進歩の理念)、つまり生きる勇気となる。こうした考えはアメリカ的哲学、つまりプラグマティズム、プロセス哲学、進歩的教育などにあらわれる

 生産的過程への参与における勇気は、三類型の不安を取り入れることができる。まず運命と死の不安は競争社会では顕著である。失業、経済的基盤の喪失による生産的過程からの排斥の脅かしが常に在る。生産的過程に参与しその部分となる存在への勇気によってこの不安は克服される。

 ここから大恐慌が、生きる勇気の喪失をもたらすことがわかる。ここでの死への不安への対処は、死の現実性を日常から遠ざけることと、終わりなき時間と世界への永久的参与、つまり生産的過程(宇宙の動き)に参与する「不滅性」である。ただ「何のため」の生産かという疑いはおさえきれない。ここに懐疑の不安が頭をもたげる。

 また現代の罪責は、社会の創造的活動に自己を適合できずその内部で業績をあげられないことであり、審判、ゆるし、復権は生産的に参与している社会集団が行う。ここでは人間自身の改造、世界の改造がメインテーマになり、実存的な義認、罪のゆるしは無意味となる。つまり生産的過程への参与が、罪責の不安をそれ自身の中に引き受ける。

 

注:役に立たないと感じることの意味

 

5、勇気と個人化〜個人として生きる勇気

 

 個人主義とは、世界への参与を無視した仕方で、自らを個的自己として肯定することで、個的自己を無視して全体の部分として自己肯定する集団主義の対極にある。個人主義はデモクラシーの翼の陰に守られ成長し、実存主義運動の内部であらわれた。集団主義を崩すものは、人格的罪責の経験と個人としての問いを持つ懐疑である。

 

 プロテスタンティズムは権威主義的であったが、主観的な宗教的敬虔の重視は、自律的理性の再出現を促し啓蒙主義への橋渡しをした。啓蒙主義では、各個人に共通な理性への服従を信じる。理性を人間にとって普遍的なものととらえ、調和の原理を信じる。つまり宇宙の法則に則り、個人的行動もその背後にある調和的全体へ導かれるとする。

 ライプニッツの予定調和では、個々のモナド(単子)は相互に通じ合う窓もないのに1つの同じ世界に参与する。これは個別化と参与の哲学的問題の解決となる。つまり個人的自己肯定がその中に普遍的理性的自己肯定を含んだところの勇気である。これは決して個的自己でなく理性の担い手としての自己であり、理性に従う勇気である。

 

 一方ロマンティークは個性概念を創出した。個性とは一回的な比較を絶した、限りなく意味を含んだ存在の根底の表現である。自己の独自性の肯定、個性の要求を満たすことが正しい存在への勇気となる。ここでの危険は参与が無視されることである。こうした自己肯定の持つ空虚さへの反動から集団主義、例えばカトリシズムへの転向が生じる。

 ニーチェはロマンティックな自然主義者で、実存主義的な存在への勇気の先駆者でもある。かれは自然(存在)を無意識的な意思の作り出した創造的表現、力への意志の対象化されたものとみる。ここにおいて意志の中心である個的な自己は決定的となる。各個人の自己肯定において、生はそれ自身を肯定したり否定したりする。

 アメリカのプラグマティズムはその倫理学的原理は成長であり、教育学的方法は個的自己の自己肯定であり、その概念の中心は創造性である。方向が外から規定されていない成長の本質は、力への意志、生命力と違わない。それにもかかわらず論理的一貫性の欠如でデモクラシー体制に順応している。

 ロマンティークや自然主義諸派では、運命の不安は個人が大宇宙を含む小宇宙であるとする自己肯定で克服する。認識という仕方においてそれ自身の中に存在の諸力を存する。孤独も絶対的ではない。大宇宙の内実が彼自身の中にある。懐疑は大宇宙を認識する不可欠の道具としてとらえる。大宇宙への情熱の中心としての人間にとって無意味性は問題にならない。これは罪責の不安の除去にもつながる。

 ところで後期ロマンティークは人間の魂にある破壊的傾向を発見した。このことは調和の理念からの決別を促した。自己自身の肯定は、自己に潜むデモーニッシュな深淵をも肯定する勇気を含む必要がある。罪責の不安はデモーニッシュなものをその破壊的性格にもかかわらず自己自身へ引き受ける勇気によって克服される。

 これは悪とは個人的なものという見方が、「宇宙悪」という見方によって置換される限りで可能となる。悪とは構造的なものである。このデモーニッシュなものは否定的ばかりでなく、創造的な存在の一部であり、20世紀の実存主義へとつながる。

 

 ロマンティークと自然主義は、今日の実存主義への道をそなえた。実存的態度とは、距離を置いた客観的態度ではなく、その中に巻き込まれていく態度である。実存的とは、その人の実存全体をもって、ある状況、特に認識的状況に参与していることで、時空、社会、歴史などの環境条件とそれに反応し変革する人間の有限の自由を含む。

 一方実存的認識とは主観と客観双方がその認識行為によって変貌することで、意味の創出を意味する。例えば歴史認識、宗教的認識、人格の認識などである。他なる人格を知るとは、その人の人格的自己に参与し、存在の核心へと実存的に突き入る状況で彼を知ることである。言い換えれば他なる実存に自らの実存をもって参与することである。

 

 実存主義とは特定の哲学形式で、自分自身であろうとする存在への勇気の最もラディカルな形態である。人間状況の非実存的解釈では、人間の有限性、疎外、意味不確定性を認識や実践で超克可能とみる。例えばヘーゲルは、世界を本質存在の適切なる表現と見なし、近代哲学の本質主義の頂点を築いた。実存は本質の中に解消される。

 そして個人的な生の持つさまざまな否定性を克服する勇気は、絶対精神が自己を現実化していくところの世界史的過程に参与することで獲得されるとされる。また運命と罪責と懐疑の不安は、様々な意味内容の諸段階をへて、その最高段階にまで上昇することで、普遍的過程を哲学的に考察することで克服される。

 一方キルケゴールはヘーゲツから決別し、実存的態度と実存主義を創始した。人間が本質から疎外されている状況を不安、絶望と表現した。有限性や疎外という実存的状況にある人間は、真理へはただ実存的態度による以外には到達できない。人間は有限性を持ち、純粋な客観性の場に立つことはできない。つまり「神の座にはない」。

 また反抗的実存主義者の最重要な存在がニーチェであり、ヨーロッパのニヒリズムの叙述で人間存在が完全な意味喪失の中に落ち込んでいる状況を示した。彼に代表される生の哲学者は、主観−客観の分裂の起源を両者に先行する「生」に求め、客観化された世界を創造的生の自己否定による形成物と解釈した。

 19世紀の革命的実存主義者たちは、人間を対象物とする破壊的力から「生」を救おうとした。ヘーゲルの非人格的論理の支配へのキルケゴールの戦い、経済的非人間化に対するマルクスの戦い、創造性のためのニーチェの戦い、死せる対象物に満ちた空間領域に向けられたベルクソンの戦いは、人格的自己の肯定のための戦いであった。

 

 そして20世紀の実存主義はこれ以上進めない極限まで進んだ。最近の実存主義はこれまでの運動と異なり、意味性の一般的崩壊を経験した。それは精神の中心から意味性の中に生きる人格的自己を失うことを意味する。対象物の世界は作者の人間を引き込み、自己の主体性を喪失させる。

 こうした懐疑と無意味性は、我々の時代特有の不安である。意味の探求と絶望との背後における決定的な事件は19世紀の神の喪失である。「神は死んだ」は価値と意味の全体系の死を意味するが、それは喪失であり解放である。それはニヒリズムへかき立てると同時に無を自己の中に引き受ける勇気へとかりたてる。

 20世紀の芸術は、無意味性の不安を表現する勇気を持っている。サルトルは「出口なし」を描き、カフカは意味の源泉が到達不可能な彼方にあり正義と恩寵の源泉が漠としてとらえがたいことを描いた。人間は勇気の源泉から切り離されている。しかし完全に切り離されているのではない。意味喪失の時代の中でその不安を自己自身に引き受ける勇気、つまり「絶望する勇気」を示した。

 実存哲学は、この絶望する勇気に論理的定式を与える。ハイデガーは「存在と時間」で、哲学的に厳密に「絶望する勇気」を定式化した。彼は不安や体制への服従による自己閉塞の鍵を開けることを「決断」によって象徴させた。決断した個人の行為に対して理性、神、規範も指示を与えられない。われわれは我々自身であらねばならない。

 良心は我々を我々自身であるべく呼び返す声である。全体の部分となる勇気しか残されていない状態から、我々自身へと呼び返す。この呼びかけに聞き従うということは、罪責を引き受ける必要が出てくる。実存的状況のゆえ、自己自身であろうとする勇気を持つ個で罪責を負い、自己自身へ引き受けることを要求される。

 無意味性に対決しうる者は、その有限性や罪責の不安を、決断を持って自己自身へ引き受ける人々だけである。何が正しいかを決定する規範や基準はなく、決断が正しかるべき物を正しくする。こうしたハイデガーの存在論の根底には神秘的な存在概念がある。

 

 サルトルは初期ハイデガーから神秘的存在概念を捨て去る。そして人間の本質はその実存であるとし、人間は自ら欲するところのものになりうること以外に人間の本性なるものは存在しないと考える。しかし自分自身を肯定するところのその「自己」とはいったいいかなる自己なのか。神が持つ「自存性」を人間は持ち得ない。

 つまり自己自身であろうとする存在への勇気がラディカルになると、自己破壊が結果する。そのため革命的実存主義とその反動たる全体主義という形であらわになる。非人間化や物象化への抵抗は、最も抑圧的な集団主義へと変貌した。多くの人々の中で存在への勇気が崩れ、1つは新集団主義へ、もう1つはノイローゼ的無関心へと帰結した。

 実際に集団主義、体制順応的な全体の部分として生きる勇気で満足する人々は、実存主義的な現代状況の無意味性を暴露する試みを拒否した。これは全体の部分となる自己限定的な存在への勇気を擁護しようとする欲求と言える。ただこの反実存主義者が伝統的な安全を維持する機構を守ろうとするやり方はノイローゼ的といえる。

 

6、勇気と超越〜肯定されている自己を肯定する勇気

 

 勇気とは存在が無にあらがって自己を肯定することだが、常に無の脅かしがあり、従って勇気は無を超克する力を必要とする。勇気は人間の力、世界の力よりも大きな存在の力に根ざす必要がある。生きる勇気は宗教的根底を持ち<存在それ自体>に参与する。それは無に脅かされたとき感知できる。

 参与と個別化は、生きる勇気のそれぞれの特定の性格を規定し、人間存在と存在の根底との関係のそれぞれ特定の性格をも規定する。参与の性格強くなると神秘的性格がかつ。個人化が強くなると人格的性格がかつ。両極が受け容れられしかも超越されると信仰の性格がかつ(ここでの信仰は後で詳述)。

 

 神秘主義では個人的自己は、存在の根底への参与を追求し合一することを目指す。神秘主義者は彼らの自己肯定の力を、神秘的に合一した<存在それ自体>の力の体験から引き出している。ヒンズー教ではマーヤー(現象世界)に抗して本来的な本質存在を肯定する。これは運命と死の不安を克服する。有為転変は現象界の非現実的なものとなる。無意味性の不安も克服される。最終的完成の確かさ、究極的な断罪はない。これは存在も意味も全く空無となる恐怖と絶望を受け容れることで、闇をへて光へ至るという受容的態度であり、悟り耐えることである。

 

 個人化の極が神と人間の人格的出会いである。人格的交わりによって、自己を啓示している人格的実在に対する信頼の勇気が生じる。ルターはカトリシズムにおける非人格的要素を攻撃し、神と人間の我と汝の出会いを擁護した。ここに信頼の勇気の頂点があり、否定的なもの「にもかかわらず」神への信頼から生きる勇気が生じる。この信頼の勇気の核心は、罪責の意識にもかかわらず、受容されている自己を受容するところの勇気である。罪責と断罪の不安にもかかわらず自己自身を肯定する勇気は、人格的出会いの中で直接的にとらえられた神のゆるしの確かさからくる。プロテスタンティズムでは、「受け容れられ得ないものが受け容れられる」。

 生きる勇気は我々が受け容れられ得ないものであるにもかかわらず、受け容れられているその我々自身を、われわれが受け容れる勇気からくる。これがパウロ的、ルター的信仰義認の意味である。この自己肯定はすべての資格に欠けているもの、自分が受け容れられないと知っているものに与えられる。<受容>とは内的自己を無限に超越する何者かに我々が受け容れられている、神との交わりに受け容れられているという、罪のゆるしを受け容れることである。人間は人格と人格の関わりの中で受け容れられるのでないと自己を受け容れられない。受容されている自己を肯定するためには、罪責を自己肯定の中に引き受ける必要がある。

 神による受容が、罪責と断罪の不安を自己の中に引き受けることができるところの生きる勇気の唯一の源泉であり、それは<存在それ自体>の力である。ルターが「信仰によってのみ」と強調するのは、有限的存在によって条件づけられず、我-汝の出会いの中で無制約なものとして体験することのみによって条件づけられるという教理である。

 ストア主義は、本質的自己は<存在それ自体>に属し、無を超越し死に脅かされないとした。これがない自己肯定は無との対面できない。一方キリスト教では人間は本質的存在から疎外されているとする。死を受け容れるのは信頼の勇気、つまり神に受け容れられていることによって、超越的確実性と超越的永遠性に出会うことで可能になる。

 またルターは無意味性の襲撃を経験した。すべてが疑わしくなり、いっさいは崩壊し、生きる勇気がなくなる経験である。ルターの敵対者であるミュンツァーも同様の体験をしている。すべて有限なるものがその有限性を暴露され、不安が人々を支配し、伝統的内容が崩れさる。その時にこそ神の霊が感受されるようになり存在への勇気が生まれる。

 

 ところで神秘的合一、人格的出会いの両者の中に信仰はあるが、信仰にはそれ以上のことが含意される。信仰概念とは、<存在それ自体>の力によって捉えられている状態である。生きる勇気は信仰の一つの表現であり、信仰の意味は生きる勇気を通じて解明する必要がある。つまり<信仰>とは<存在それ自体>の力の経験であり、<存在それ自体>の力が、存在者に<存在への勇気>を与える。人間がその隔たりによって分離されているにもかかわらず、<存在それ自体>の力によって受け容れられているということを受け容れる。ここに生きる勇気が生まれる。信仰とは理論的肯定ではなく、日常経験を越えている何ものかを実存的に受け容れることで、1つの状態、つまり<存在それ自体>の力にとらえられている状態であり、そこで自己自身を肯定できる。ここで神秘主義的な生きる力と人格的出会いにおける生きる勇気が結合される。つまり<信仰>が両者の生きる勇気の基礎になる。

 

 このことは、現代の懐疑と無意味の不安が優勢になっている時代に決定的に重要な意味を持つ。無意味性の不安は、ほかの2つの不安が切り崩せなかったものを切り崩す。死や断罪の中でさえ、意味は肯定され、何らかの確かさがあった。この意味性、確実性が無にのみ込まれる。

 私たちはまず、無意味性の状態を受け容れる必要がある。懐疑と無意味にとらわれている人は、そこから自己を解放することができない。その絶望状態の中での勇気を問う必要がある。つまり生の意味は、生の意味への絶望の形をとる。絶望それ自体が生の行為であり、その絶望は否定的な内容にもかかわらず肯定的になる。

 我々が受け容れられ得ないものであるという絶望にもかかわらず、受け容れられているその我々自身を、われわれが受け容れる勇気であり、これは自己否定のパラドクスである。絶望する勇気を可能にする<信仰>とは、無の圧倒的な経験、意味性についての絶望のただなかで、にもかかわらずなお存在の力によってとらえられていることである。

 存在の力は、運命と罪責の不安を自身の中に取り入れる勇気を与える。同様にそれは無意味と懐疑の不安を自身の中に取り入れる勇気を与える。それは単純で絶対的な信仰であり、無の噴出にもかかわらず現在している存在それ自体の力の経験であり、無意味性の深淵に耐えうる生命力である。

 

 受け容れられるという経験は、意味喪失の中でも貫徹して存続する。それを対象化することで、絶対的信仰が自覚的になる。絶対的信仰は神秘的経験の中にはない「懐疑」を含んでいる。それは懐疑によってすべての具体的内容が奪い去られた信仰であり、また神秘的経験も神と人との出会いも越えている。神の中にある無は、神の閉塞感を打ち破り、神が力と愛の神であることを開示する。無を持たない限りそれは動きのない自己同一性にすぎない。何者も発現されず、表現されず、開示されない。神がそれ自身と被造物の中に克服すべき「否」を持たないと、「然り」は命を持たない。

 

 存在それ自体が無の脅かしにもかかわらず自己を肯定する性格によって勇気が可能になる。神秘主義的信仰、人格的出会いによる信仰、絶対的信仰によってこの力を受け取る人は、彼の存在への勇気の源泉が何であるかを知る。人間は必ずしも勇気の源泉を意識しないが、存在の力はわれわれの中に働いている。あらゆる勇気の行為は、存在の根底の何らかの顕現である。勇気は真の存在を開示する。我々自身の自己肯定は、存在それ自体の自己肯定に参与することになる。神の存在は証明されない。しかしそれを知る知らないにかかわらず、勇気の行為において存在の力を肯定する。存在の力を知ることで、我々は意識的に受容されていることを受容する。

 

 絶対的信仰は懐疑を含み有神論的神概念を越える。神学的有神論では主客の分離の中で神が客体化し、神の前で私たちが客体化される。人間は絶対的知と統制の単なる対象になる。神は独裁的暴君的となり、その前では人は自由も主体性も持てない。ニーチェはこの神を殺し、無意味性の不安の最深の根を開いた。生きる勇気の源泉は、神を越える神にある。有神論の神を超越することで、懐疑と無意味の不安は生きる勇気の中に取り入れることが可能になる。それは神秘主義も越える。神秘主義は有限的意味や価値物の世界を置き去りにする。有神論を越える神は、懐疑によって無意味の深淵に投げ込まれている意味あるものをもう一度回復する力になる。

 有神論を越える神は、聖書的宗教、プロテスタント神学もそれを知っている。神が人間と出会うとき、主観—客観の図式を越える。ゆるしは、ゆるしの力が人間の中に働くときのみ可能であり、祈りにおいて語りかけることのできない相手と知りつつ語る、汝と呼びかける。こうした逆説的性格が神を越える神へと至らしめる。

 神を越える神の経験に根ざす生きる勇気は、全体の部分として生きる勇気と個人として生きる勇気の両方を超越し統合する。参与による自己の喪失と個人化による世界の喪失をまぬかれる。全体の一部分になるが全体性の中に喪失されることはない。存在の力に参与することで、自己それ自身を取り戻す。存在の力は個別的自己の力を通して働く。

 <神を越える神>の教会は、懐疑や無意味性を自己に引き受ける生きる勇気の媒介となる。人間の可能性の限界は絶望する勇気である。この信仰に人間は安住できない。言葉や概念で伝達される安全性を持たない。名称も祭儀も教会も神学も持たない。すべての深みで動いている。これは存在の力であり、すべてはその断片的な表現形式である。

 

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