ミルグラムの『服従の心理』(1974)の要約

ミルグラムの『服従の心理』(1974)の要約

 

序文

 

 服従の本質は、人が自分を別の人間の願望実行の道具として考えるようになり、したがって自分の行動に責任を取らなくていいと考えるようになる点にあるこの重要な視点の変化がその人の内部で生じたら、それに伴って服従の本質的特徴すべてが生じる。服従の本質をとらえた状況を慎重に構築することができる。つまりその人が自分自身を権威に委ねてしまい、自分自身の行動を自分が実質的に引き起こしていると考えなくなるような状況を構築することである。

 われわれの研究は、服従がいかなる脅しもないのに自主的に行われるものに限る。被験者の問題として、いったん実験者の目的に提供してしまった自律性プロセスを、どうやって自分の手に取り戻すかがある。

 

第1章 服従のジレンマ

 

 服従とは、個人の行動を政治目的にむすびつける心理メカニズムである。人を権威システムに縛る指向上のセメントである。多くの人にとって服従が根深い行動傾向になっている。それどころか倫理や同情、道徳的振る舞いについての訓練を圧倒してしまうほどのきわめて強力な衝動である。ナチスのユダヤ人虐殺は、美徳と賞賛されてきた権威への服従だが、それが悪しき目的に奉仕する場合、新たな側面を持つ。

 良心に反するような命令に服従すべきかの道徳的問題について保守的哲学者は、 非服従が社会の基盤を根底から脅かすとし、権威が命じる行動が邪悪でも従うべきとする。ホッブスは、そうやって実行された行動は、決してその人の責任ではなく、権威に責任があるとする。一方人本主義者は個人の良心の方が上位にあるとする。

 この研究は心理学研究室にやってきて、行動を依頼されるが、だんだん良心にさからうものになる。どこまで実験者の指示に従い続けるかが研究の眼目である。先生役は何も知らない被験者で、学習者は役者で実際は電撃は受けていない。葛藤が生じるのは学習者が不快感を訴え始めた時となる。被験者の葛藤は強烈で明白なものだ。学習者の苦悶し、やめなければと思う。しかし実験者が正当な権威として続けるよう促す。この状況から逃れるためにははっきりと権威を拒む必要がある。

 

 正当な権威が、第三者に害を及ぼすように指示した時、人はどうふるまうか。例えば上官の命令がそれに当たる。実際には相当部分は発生器の最高レベルまで電撃を与え続ける。というアーレントの発想が、真実に近い。自分の道徳の根本的な基準と相容れない行動をとるように指示されても、権威に逆らうだけの能力を持つ人は少ない。

 一般論としては何をすべきかわかっている、口にもする、でもそれは状況の圧力下での実際の行動と関係がない。非服従が正しいという価値判断があっても、進行中の状況で作用するのは価値判断だけでない。多くの人は自分の価値を実現させられず、実験を続ける。情報と社会的状況を計算づくで再構成すれば、道徳的要因はかなり簡単に脇に押しやれる。

 

 人が実験者に服従し続ける要因としては、被験者をその状況に縛り付ける束縛要因がある。礼儀ただしさや当初の約束を守るなどである。権威と手を切る決意を弱める被験者の中での各種の調整には次のようなものがある。

 まず自分の作業の狭い技術的な側面にとらわれすぎる(手続きに没頭する)。目標設定と道徳性という仕事を自分が奉仕している実験の権威者に委ねる。第二に自分の行動に責任がないと考える。責任は実験者にあるとし、「自分の義務を果たしていただけ」と考えるのは大多数の人の根本的思考様式である。責任感の消失は、権威への従属にともなう最も重要な帰結である。第三に、道徳感覚の焦点がまるっきりちがってくる。道徳的配慮は権威が自分に期待していることにどれだけ上手に応えるかに移行する。例えば爆撃の善悪でなく、任務が遂行できたかどうかに誇りや恥を覚える。第四に「反擬人化」がある。人間が作ったシステムを人間の実行者を超越した存在のように扱う。「続けてもらわないと実験が成り立たない」と言われると人間の命令を越えた指示ととらえる(実験を科学的真理の探求が博愛的で社会的に有用なものととらえる)

 第五としてナチスでは被害者を害する行動に先立ち、その被害者をおとしめるプロパガンダをしたが、この実験では被害者を害する行動をとった結果として辛辣に被害者をおとしめるようになった。第六に「知的レジスタンス」がある。誤っていると口で言うが、行動に移さない。これは単なる自己慰撫的な心理的メカニズムであり、圧政を永続させるのは、自分の信念を行動に移せない内気な人々なのである。価値観を行動に移す内的リソースをかきあつめられない。

 

 この実験の変種として実際に電撃を加える人は別の人で自分は補助的役割を取るというものがある。結果は40人中37人が最高レベルまで電撃を行い、実際に責任あるのはスイッチを入れた人と弁解した。行動の最終的帰結から遠く離れると、責任を無視するのは簡単である。アイヒマンがその好例である。人間行動総体の断片化によって、行動の全責任を負う人物が消え去る。

 

第2章 検討方法

 

 服従の強度とそれが変動するための条件を計画するには、非服従をうながす要因に逆らう形で服従が強制されなければならない。あらゆる道徳原理の中で、いちばん普遍的に近い認められ方をしているのは、次のようなものだ。人は有害でもなく自分を脅かしているわけでもない、無力な人物に危害を加えてはならない。この原理を服従に対する対抗力として設定する。実験室に来る人は、別の個人に対して危害を加えるように命じられ、その熾烈さをますます高めるように要求される。これにつれて非服従の圧力も積み上がり、どこかの時点で被験者はその命令に従うことを拒否し手を引くだろう。この断絶までの行動が「服従」、断絶の地点が「非服従」の行為と捉える。

 何も知らない被験者が電撃を与えるのを正当化する口実を作る。被験者は学習者が間違うたびに電撃を加えるように指示される。一つ高い電撃に移行する。被験者の反応に対し、実験者は定型的な文句でうながしを行う。被害者からの抗議という手順をいれる(パイロット研究でこれがないと最後までスイッチを入れることがわかっていた)。

 研究の核心は、実験上の命令に対する服従の度合いを変えると思われる要因を系統的に変えてみることと、権威への服従がどんな条件下でもっとも起きやすく、どんな条件下で反抗が台頭するかを調べることである。

 

第3章 予想される行動

 

 ほぼすべての被験者は実験者への服従を拒否すると予測された。根底にある想定は次の通りである。

1、人々はおおむね善良であり、罪もない人に平気で危害を加えたりしない

2、物理的な力や脅しで脅迫されない限り、人の行動の源は何よりその人自身だ

 私たちは予想において、その人がおかれた状況よりはむしろ、自律的な個人の特性に注目してしまう。

 

第4章 被害者との近接性

 

 遠隔フィードバックによって、被害者からの音声による苦情がまったく聞かれない状況では、被害者40人のうち26人は最後まで電撃を続けた。そこで被験者から見た被害者の存在感を高めるために音声による抗議を導入したり、被害者と接触するようにした。結果として被害者が被験者に近づくにつれて服従は大幅に下がる。

 この原因として遠隔の時や、音声だけだと苦痛をもたらしている事実は理解されるが実感されない。服従が減少するのは、豊かになる共感によってである。遠隔では被害者を意識の外に追い出すことができる。知覚の狭窄が起こる。こちらが見えない相手に害を与える方が容易である。遠隔では自分の行動とそれが被害者にもたらす帰結の関係を見るのが難しい。また遠隔では、実験者と被験者の間に形成される集団に被害者は入らない。被害者が被験者の近くに配置されると、2人は実験者に歯向かう同盟を作りやすくなる。このように被害者が近づくにつれ不服従が増える。服従の理論的モデルはすべてこの事実を考慮しなければならない。

 

 予想外の行動として反対し、無意味と糾弾する人も、多くの人が実験の命令に従う。観察者は被験者が示す服従の度合いを一貫して過小評価した。一部の被験者にとってこの実験は驚くほどの感情的苦しみを生んだ。服従的結果と反抗的結果が両方存在し極度の緊張をもたらした。緊張が極度になってもそれを除去する反応を実行できなかった。非服従反応の起動を阻害するような動因や性向に禁忌がある。この強さは経験されているストレスよりも規模が大きいはずである。

 

第5章 権威に直面する個人

 

 その人が自分自身の行動の原因について完全に理解しているとは考える必要がない。被験者は状況の中で自分でも気づいていないたくさんの力にコントロールされている。それぞれの条件で被験者が直面する状況の性質を少しずつ変えることで、それぞれの要因の重要性がわかる。

 

 ブルーノ・バッタは学習者に対し全く無関心で、実験者には従順で敬意をこめた態度をとる。残虐に学習者を押さえつけるが、単に自分の仕事をきちんとすると捉えている。責任を実験者に帰する。これをやるために金を払ってもらったから命令に従う必要があると考える。

 旧約聖書の教授は、人が究極の権威として神を持っていれば、その前では人間の権威など微々たるものと考え、非服従行動をとった。ジャックは最大の責任者は実験者であり、学習者は自分でそれに同意したから責任がある。自分は命令に従っただけで最小の責任しかないという図式に深くはまりこんでいた。ヤン選択の余地はあるかを確かめ、実験をやめる。「すべての責任は自分にある」と考える。モリスは自分が逸脱できず、手助けもできない状況に笑うしかない。

 こうして自分の価値観に反してもそれを継続できたことに驚きがある。

 

第6章 さらなる変種やコントロール

 

 実験については、さらなる変種やコントロールが行われた。学習者の心臓に問題があることに言及しても、非服従は特に増えなかった。途中で人員(人格)交替しても服従の度合いはほとんど影響がない。一方、実験者が物理的に実験者からいなくなると服従は大幅に下がる。実験者と対面しなくてよいなら被験者たちはずっと抵抗しやすい。

 また正しい手続きから逸脱するのは、権威に公然と決別するより、葛藤処理が楽である。女性被験者の遵守性の実験では、女性の方が男性よりも従いやすいことが見られた。また自分たちの服従を説明する時、「暗黙の社会契約」という発想に頼ろうとする。つまり自分たちは実験者と契約して一般に共有されている価値(知識の進歩)追求のために自由の一部を放棄するというものだ。また被害者もまた実験権威と契約を結んだのであり、その義務を一方的に放棄する自由はないと考える。

 「言ったらすぐ出してくれるという条件付き」で契約し、でも実際には実験者はそれを無視する場合、反抗した被験者の4分の1は被害者が参加に条件をつけたという事実をはっきり指摘した。この論点を非服従の議論に使っている。ただ非服従はある程度増えたが偶然の変動の範囲であった。

 背景的権威の問題として、この実験の大学とのつながりを完全に断つことも行なった。結果的に服従の水準は多少低くなるが、大学でのものより大幅に低いというわけではない。被験者が自由に電撃の水準を選べる実験では、被験者の大多数は最低限の電撃しか加えない。これは人々が根深い攻撃的な本能を有しているので、自由にさせるとそれを発揮するはずという仮説を否定している。

 

第7章 権威に直面した個人 その2

 

 フレッドは幾度もの抗議をするが、でも言われた通り電撃を続ける。電撃を加えるのは苦痛、でも実験者との関係のため実施する。責任が重要と考える。実験者が責任を負うと言った時に限りためらいののち継続した。カレンは自分が実験者の指示通りやったことを強調し、その遵守ぶりに満足する。

 エリアにとって不安なのは男性が危害を加えられているからでなく、それをしているのが自分だからであり、自己中心的性質に彩られている。目的、思考、感情が分断し、非服従的行動につなげるだけの心理的なリソースを動員できない。事後的な思考の改編を通じて彼女は自分のお気に入りの自己像を保護している。

 グレッチェンは続けるのを決然と拒否したが、その際、緊張や不安はない。非服従が単純で理性的行為と考えている。パスクワルは大学の連中が大丈夫だと言うなら、私はどうこう言うつもりはない。戦争では非常な試練の状況でも服従こそは生存を一番確実に保証してくれる。

 

第8章 役割の入れ替え

 

 被験者は命令の内容に反応しているのか、人物の地位に反応しているか。学習者が電撃を要求し、実験者は電撃を禁じる実験では学習者の要求に従うものは一人もいない。学習者はシステムの一部になりにきただけ、システムをコントロールしているのは権威と考えられる。決定的重要性は命令の中身ではない。その源が権威から発していることにある。状況全体が権威の目的に支配され切っている。

 何の権威的地位も持たない人が命令を下す場合、つまり自分と同じ立場の人が電撃をやると提案した場合、ほぼ全員がこの行動に抗議する。権威に対して極めて受動的だったのに、この状況では英雄的に被害者を守る。

 実験者がやってみせる形で学習者になり、150ボルトでいやというが共謀者は続けようとすると、それは完全に無視される。この人に一般人が電撃を受けていたらどうするかを聞くと、進む可能性を強く否定する。自分たちの決断における権威の重みを正しく評価していない。決定的な要因は、権威に対する応答(誰のためにそれをするか)である。

 

 二重の権威があり、権威そのものが葛藤しているとどうなるか。二人の権威が矛盾する命令を出し、権威同士の意見の不一致が起こると、被験者は行動を完全に麻痺させる。高いレベルから来る信号が「汚染」されると、ヒエラルキー体系の一貫性が破壊され、行動を有効に統括する能力を失う。一部の被験者は意味あるヒエラルキーを再構築しようと努力する。実験者二人のうちどちらが権威として地位が高いか見極めようとする。

 二人の権威のうち一人は被害者、一人は監督者になった場合、一般人と大差ない扱いをされる。なぜ権威を失ったのかは、次の理由が考えられる。

1、自発的に被害者になった。自分で自分の司令的地位を下げた

2、権威は単なる肩書きでなく、社会的に規定された機会におけるある行動の頂点をしめることである

3、知覚された権威において司令席の実験者に優位性を与えるのに十分であった。ヒエラルキー的制御の性質として、反応は最高の地位を持つ人々に、オール・オア・ナッシングで結びついている。

 

 権威システムは人々がヒエラルキー構造の序列を持つことが基盤にある。コントロールを決定づける問題は、誰が誰より上の地位にあるかであり、どのくらい上かはあまり重要でない。

 

第9章 集団効果 

 

 個人と仲間との関係は、権威との結びつきと競合できるし時に上回る。服従と同調の区別が必要である。同調は、自分と同じ地位で、自分の行動を左右する権利を持たない人に同調する行動である。服従は権威に従う被験者の行動である。

 アッシュの被験者は集団に同調した。本書は服従を取り扱っている。双方とも自分の主体性を外部の源に預ける。しかし次のような相違点もある。

1、ヒエラルキー 権威への服従は、行為者が上にいる人物が行動を指図する権利を持っていると感じるようなヒエラルキー構造の中で起きる。同調は同じ地位同士で起こる。

2、模倣 同調は模倣である。同調は影響を受けた人が仲間の行動を採用することで起きる。行動の均質化が生じる。

3、明示性 服従において行動の指示は明示的である。同調ではしばしば暗黙のままである。明示的に同調しろというとかえって抵抗する。

4、自発性 自分が集団に同調した度合いを過小評価することで自立性の強調が行われる。服従する人は、自立性は全くなかったと主張する。同調は暗黙の圧力に対する反応であるが、仲間に屈する正当な理由がないので、自分にもその圧力を否定する。服従では状況は公式に自発性がないものとして定義され、自らの行動の説明となる。

 

 同僚二人が反逆するという、集団の影響がどのくらい被験者を権威の支配から解放して個人の価値観に合致した行動を可能にするかの実験を行なった。結果、40人中36人が実験者に歯向かった(集団圧力ない場合は14人)。これ以上、実験者の権威を阻害するものはない

 集団の有効性に貢献するいくつかの要因として次のようなものがある。

1、同僚たちは被験者は実験者に反抗するという考えを植え付ける

2、反抗がこの状況に対する自然な反応だということを示唆する

3、意志に反して人を処罰するのが間違いという被験者の疑念が社会的に裏付けられる

4、実験者に逆らっても特に何か罰があるわけでないことを知る

5、他の二人に言うことを聞かせられなかったことにより権力の弱体化が起こる。権威が命令の遵守を強制するのに失敗するごとに、その権威が持つと知覚される権力も低下する。

 

 集団が有効に権威に対抗できるのは、個人の行動が次の3つの原則に基づくからである。

1、人々は内面に何らかの行動規範を持っている

2、権威から加えられるかもしれない懲罰に対しては敏感に反応する

3、集団から適用される可能性のある懲罰にも反応する

人々がお互いにもたらす相互支援は、権威の過剰に対する最大の堡塁となる。

 

 権威は集団の利用もちゃんと考えており、通常は服従に貢献する形で集団を活用する。電撃は別の人が加え、自分は副次的行動に従事するだけの実験の場合、最後までやらなかったのは3人だけであった。破壊的行動を目的とした官僚システムでは、実際に暴力をふるうのが最も冷酷で鈍感なものだけとなるよう人員を配置できる。それ以外の人員は残虐行為から離れるので、次の2重の意味で責任を逃れられる。

1、正当な権威がその行為を裏付けてくれた

2、自分は残酷な物理行為を直接していない

 

第10章 なぜ服従するのかの分析

 

 日常生活ではまっとうな人々が、権威の仕掛けにとらわれ、知覚を操作されて、実験者による状況定義を無批判に受け入れることにより、残酷な行動を実行するようしむけられる。服従の原因についてもっと深く探求が必要である。

 

 一つはヒエラルキーが生存に有利であるということがある。組織内部の関係に安定性と調和がある場合、ヒエラルキーに異議を唱えることは暴力へとつながるので、私たちは服従能力を獲得する。

 次にサイバネティクス的観点からの説明もできる。服従の中心問題は「自律的に行動する個人が、独自にではなくシステムの構成要素として機能するような社会構造に埋め込まれた時、どんな変化が生じるか」である。複数のオートマンを制御するため、調整機能にコントロールを譲渡すニーズが生じる。つまり個人が独自に機能している時(自律モード)は良心が、システムモードでは命令が行動を制御する。ここでは最高位の指導者の心理だけが全く別の説明原理を必要とする。攻撃的行動を制御する良心が、ヒエラルキー構造に参加する時点で力を弱められている。

 

 権威システムに参加する人は、自分が独自の目的に向って行動しているとは考えず、他人の願望を実行するエージェント(代理人)として、自分の行動を理解する。これは「エージェント状態」であり、その反対が自律状態である。ここでは自分の行動に責任がない。いくつかの解発因があるとエージェント状態に移行する傾向はきわめて強力になる。

 

第11章 服従のプロセス 分析を実験に適用する

 

 次の3つの問いがある。

問1 人はどうゆう条件があるとエージェント状態に移行するか

問2 いったんその移行が起こったら、その人物の行動と心理のどんな性質が変わるのだろうか

問3 人をそのエージェント状態に保つものは何か

 

 服従の事前条件として、まずその人が被験者となる前に作用してきた力、つまり服従の基盤を作った力がある。まず家族では、大人の権威に対する敬意を教え込まれる。子どもに権威からの指図が権威からの指図だからというだけで従え、と指示している。

 制度的な環境として 制度化された権威システムとしての学校は、組織の枠組み内でどう機能すべきかを学ぶ。権威に対する唯一の適切な対応は従うことと教える。仕事においては、上司と調和して機能するためには、根底に服従の姿勢がないといけないと学ぶ。そこでは非人格的権威にも反応するように教える。例えば肩書きを重視するなどである。こうした権威に従わないと罰を受ける。典型的報酬として昇進があり、これがヒエラルキー形態の持続を可能にする。社会秩序の内面化、権威への服従を要求する規則の内面化が行われる。

 

 直接的な事前条件としては、エージェント状態に移行する具体的で直接的な要因がある。エージェント状態に転換する第一の条件は権威の認識である。その状況下で社会的なコントロールの地位についていると認識される人物を認識する。権威は文脈に応じて認識される。ある状況には社会的コントロールを行う人物がいるという共通の期待がある。権威の力は個人の特性からでなく、社会構造の中で認知されたその人の地位から生じる。被験者が反応するのは実際の権威でなく、権威の外見である。例えば次のような要素である。

1、自己紹介 威厳ある態度

2、服装

3、他に競合する権威がない

4、明らかにおかしい要素がない

 

 第二の条件はその人自身を権威システムの一部と定義することである。権威システムはしばしば物理的条件によって限定される。人々が権威下に入るのは、その物理的な境界を越えて相手の領域に入った時(この実験を実験室の外でやったら、服従の度合いは大幅に下がる)である。被験者は自発的に実験者の権威領域に入っており、参加が自由意志で行われた。それゆえ約束感と義務感が生じている。恫喝でも服従するが見張らないと服従はとまる。自発的服従は当人の内部から来る。

 権威の機能と命令との一致、つまりそこを仕切る人物とその人が発する命令の性質との間に結びつきが必要である。

 定義された社会的状況の中で、正当な社会的コントロールの源であるという認識が生じることが、エージェント状態への移行に必要となる。状況の正当性は、それを正当化するイデオロギーにどこまで関連づけられているかによる。これがあると、「正しいことをしている」という強い意識を持って遵守するような自発的服従に至る。自分のやっていることは望ましい目的に奉仕するものと思わせてくれる。

 実験者は実験者個人を越えるシステムの一部として機能(科学、制度・・)している。彼の力はある程度まで従わせている人々の合意から生じる。でも合意がいったん生じたらそれを勝手に取り消すことはできない。

 

 エージェント状態というこの性質はどのようなものか、どんな帰結を生むか。まずはチューニングが起こる。つまり被験者の中では権威から発せられるものに最大限の感度を働かせる。一方学習者の信号は消去され心理的に遠くなる。

 次に状況が定義し直される。人がどのように世界を解釈するかを変えれば、その人のふるまいはかなりの部分コントロールできてしまう。人間の条件を解釈する試みとしてのイデオロギーが大きな役割を果たす。それは物事の公式な解釈を形成する。

 どんな状況も一種のイデオロギーを持つ。ある状況の要素に一貫性を与える視点を提供する。同じ行為でもある視点からは凶悪に、ある視点からは問題ない事になる。人々は正当な権威が提供した行動の定義を受けいれる傾向を持つ。行為を行うのは被験者でも、その意味を定義づけるのは権威である。服従の主要な認知的基盤を構成するのは、この権威に対するイデオロギー的放棄である。もし世界や状況が権威の定義通りなら、ある種の行動はそこから論理的に導かれる。被験者が権威による状況定義を受けいれると自発的服従へ導かれる。

 その結果、責任の喪失が起きる。エージェント状態への移行の結果、権威に対しては責任を感じるのに、権威が命じる行動の中身に責任を感じなくなる。俺は自分の責務を果たしただけとなる。従属的立場の人が感じる恥や誇りは、権威が命じたことをどれだけきちんとこなせるかになる。つまり忠誠心や責務が重要となる。人が自分の行動に責任を感じるためには、その行動が「自己」から生じたと感じなくてはならない。被験者は正反対の見方をしていて、内面的な抑制力によるチェックを受けない。

 

 攻撃は文化的に抑制されているが、権威から発する行動への内的コントロールを育てることは文化は完全に失敗している。これは人間の生存に大きな危険をもたらす。

 自己イメージにおいては人に対しても、自分に対してもいい格好できることが重要である。人の自我的な理想も内面的な抑制規制の源になる。しかしエージェントになると、この評価機構はお留守になる。行動は自分の動機からでなく、自己イメージに反映されない。つまり自己認識も変わらない。自分に罪はない。自分の価値を高く評価してもらうために頼るのは権威となる。

 このようにエージェント状態とは、服従の可能性を高める精神的組織の状態である。服従はその状態の行動面である。

 

 それではエージェント状態にどうして止まるのか。多くの被験者は一時的に非服従の方へ動くが、そこで何かに拘束されてしまった。それはどこからくるのか。

 まず行動の連続性がある。被験者に要求される行動の反復的性質は、それ自体が拘束力を持つ。それまでやってきたことを正当化する必要があり、そのためには最後まで続けることが必要となる。

 第二に状況から来る義務感がある。非服従は社会的機会の一部として存在する暗黙の理解に違反する。実験者を手伝うと約束したのに、それを反故にすることは、義務を放棄する行為として経験される。ゴッフマンは、あらゆる社会的状況は参加者間で機能する合意のもとに築かれているとし、その前提は、その状況の定義がいったん参加者の合意を得たらそれは蒸し返さないことと指摘している。皆の認めた定義を一人だけがひっくりかえすには、道徳的侵犯の性格を持つ。

 状況の定義に関する公然の抗争は礼儀正しい社交辞令では収まらない。ある人が状況の定義をして、ある特定種類の人間であると主張することは、他の人に対し自動的に道徳的要求をしている。つまり自分の価値を認め扱えと要求している。実験者への服従を拒否することは、この状況における彼の有能さと権威の主張を否定することとなり、極めて厳しい社会的不適切さを含む。

 実験の設定は、実験者の自己定義を侵害しないと被験者が学習者への電撃を止められない設定されている。中断したら傲慢で無作法に感じる(顔を潰さざるを得ない)。権威との関係のエチケットを破るのは極めて困難である。社会的状況は、その状況に応じたエチケットで結びあわされており、各人は他人の提出した状況定義を尊重し、争いや恥や気まずさを避ける。その状況がヒエラルキー的なものと定義されると、それを変えようという試みはすべて道徳的侵犯として体験され、不安や恥、後ろめたさ、自分の価値が低下したような気分になる

 このように被験者が体験する恐怖は予測的なもので不安を引き起こす。社会生活の基本ルールが内面化され、権威への敬意がある中でルールを攻撃する不安が起きる。しかしいったん非服従が生じて氷が割れるとあらゆる緊張や不安、恐怖は消え失せる。

 

第12章 緊張と非服従

 

 被験者は服従しないこともある。なぜか?道徳に反するからの説明は不適切である。被験者を非服従に駆り立てるのは一般的な緊張である。非服従は純緊張が束縛要因の強さを越えた時の結果として表れる。

 被験者が緊張を感じるのは、権威の弱さを示している。権威システムに完全に埋没するなら緊張はない。完全なエージェントに変換できていない徴である。エージェント状態でも人の道徳的判断はおおむね停止しているが、十分に大きな衝撃あれば、その状態の有効性は危うくなる。

 

 緊張の源としては次のようなものがある。

1、学習者の発する苦痛の声

2、被験者が持つ道徳的価値

3、報復の脅し

4、矛盾する要求

5、自己イメージと相容れない

 

 被験者の行動とその行動の結果との心理的距離を減らす特性はすべて緊張水準を下げる。「自分は人に危害を与えている」という意識を薄めてくれるものは、その行動をやりやすくする。例えば物理的距離、苦痛の叫びを弱めること、物理的障壁などである。これらはバッファと呼ばれる。人間の生存にとって悪意ある権威と、バッファの非人格化作用との組み合わせほど危険なものはない。大砲を撃ち込む方が、一人を石で殴り殺すより容易である。

 緊張を終わらせるのに、非服従は最後の手段である。緊張を弱める各種の心理機構がある。回避は自分の行動が自分の感覚に対してもたらす帰結から遮断する。例えば顔を背ける、被害者の声が聞こえないほど大声を出す、手続き・手順に集中し被害者から注意をそらすなどがそれである。

 否認は目に見える証拠を拒絶し、出来事を都合のいいように解釈する。例えばドイツ人がユダヤ人の大虐殺を否認するなどである。典型的なものは責任の否認である。また権威の課すルールの中で「軽く」行うこともある。電撃の時間を短くするなどで、自分の良心をなだめる。

 ごまかしは正解を強調して被害者に知らせるなどである。実験をだいなしにしてもいいが、権威には逆らいたくない。何かをすることで自分が優しい人だという自己イメージを保つ。責任逃れは責任を負わないことの確認を取ることで、それを保証すると緊張解消が起こる。また被害者に責任を押し付けることもある。馬鹿で頑固と貶める。被害者が無価値なら苦痛を味わわせても気に病む必要はない。

 身体的な転換が起こることもある。非服従でなく身体症状に変換され、緊張は発散される。不同意は実験者の指示する行動方針に不賛成だと表明することで二重の機能を持つ。一つは行動方針を変える方向に機能し、もう一つは緊張緩和の機能である。不同意はヒエラルキーの絆を壊さなくて可能で、非服従とは質的に不連続である。反論しても権威がそれを受け入れない権利も尊重していて、反論に基づいて行動できない。自分は反対したと望ましい自己イメージを保つアリバイにもなる。

 

 個別のニーズに応じた緊張解消が行われる。感情的な反応は回避で避けられる。自己イメージの保護のためには、ごまかし、最低限の遵守、不同意が用いられる。これらは共通する目的に密かに奉仕する。つまり紛争を許容できる範囲に引き下げ、被験者と権威との関係を壊さないようにする。

 

 非服従は命令の実施拒否だけでなく、被験者と権威との関係そのものを見直す。それは不安だらけである。定義された社会秩序を破って与えられた役割から飛び出す。これは無政府状態を作ること(関係がどうなるかわからない、権威からの仕返しの可能性)である。非服従に至るプロセスは次のとおりである。

1、内心の疑惑 私的体験から外的な形へ 懸念を伝えるなど

2、不同意 権威に対し行動方針を変えるように説得しようとする

3、脅し もう権威の命令は実行しませんと述べる

4、非服従 実験者との関係の根底に迫る必要を悟る

 

これは否定的結末ではなく、肯定的行動としての性格を持つ。非服従は、内的リソースの動員を必要とする。行動の領域へ持ち込む精神的コストは凄まじい。実験破壊の責任を受けいれる。代償として自分が引き起こした社会的秩序の破壊に困惑し、自分が支援を約束した目的を放棄した感覚を捨て去ることができないことがある。

 

第13章 別の理論

 

 実験室で観察されたのは攻撃性であるという理論もあるが、それはまちがっている。被験者の行動は破壊的衝動から生まれたのではない。被験者の行動の鍵は鬱積した怒りや攻撃性ではなく、彼らの権威との関係が持つ性質である。

 

第14章 手法上の問題

 

 実験に対する批判の根底には、人間の性質に関する別のモデルが存在する。つまり危害を加えるか権威に従うかの選択において、権威を拒絶するはずだと考えるのである。しかしブリスベン、ミュンヘン、ローマなどでも同じ結果が起きた。

 

 ナチスのやったことと出来事の状況や規模には違いがあるが、心理プロセスは共通である。そしてこれは何度も起こっている。ソンミ村での虐殺、南北戦争などである。共通してみられるのは、権威に果てしなく身を委ねる能力である。無力な被害者に危害を加える緊張を減らすための同じ精神的メカニズムがそこにはある。

 被験者たちの服従維持は、この社会的状況の対面的な性質とそこに監視が常駐していることが大きく作用している。ドイツではより権威の内面化に依存(権威との長期的関係)している。そこでは命令に日常的に従っている人々の、あたりまえの決まりきった破壊をもっぱら問題にしている。

 

第15章 エピローグ

 

 問題は専制主義でなく、権威そのものにある。穏当な人が数ヶ月で良心の制約を受けず人を殺せるようになるプロセスがある。

1、軍の権威システムの外の立場から、その中へ立場を移す

2、忠誠の誓い。新しい役割への新兵の献身の強化がなされる

3、競合する権威がないように、外部との隔絶が図られる

4、服従するかどうかで報償や懲罰を与える

5、基礎訓練。根本的ねらいは個性や自我の名残を打ち砕くことにある

6、行進・小隊行動。個が組織モードにとけ込んだことに視覚的な形態を与える。自我を一切排除し、軍の権威を内面化した形で受容させる

7、行動の意味合いを理想に結びつける。母国を守るなど

8、敵は人間以下であり同情に値しないと教え込む。人種が違うなど

9、規律の維持が生き残りの要素となることを教え込む。残酷で非人道的な行動が正当化されるような形で状況が定義(愛国的で勇気ある男)される。

 エージェントになりきれず良心のとがめを感じる兵士は騒乱の元になりかねない。軍の機能にとって唯一の危険は一人の裏切り者が他の兵士を刺激することにある。したがって隔離されるか処罰される。多くの例では技術が必要なバッファを用意する。

 

 以下のテーマが繰り返し登場する。アイヒマンや捕虜虐待においてもみられる。

1、道徳的見通しよりも行政管理的な見通しに支配され実行する

2、他人を破滅させることと個人的な感情表現を区別する

3、忠誠、責務といった個人的価値観が、大きなシステムを維持する技術的前提となる

4、道徳概念と対立しないように用語の置き換えをする

5、責任は上に押し上げられ、承認の要求が繰り返される

6、行動はイデオロギー上、崇高とされる

7、破壊的方向性に反対したり、話題にするにはうしろめたさがある

8、権威との関係が変わらないまま心理的調整による緊張緩和が起こる

9、服従は相反する意志や哲学の劇的対立という形でなく、社会関係、キャリア上の野心、技術的な決まり作業等が支配的な調子となる。与えられた仕事をこなしている空気となる

 

 この実験の意味合いとして、攻撃性よりも危険なものをあらわにした。人は自分の独特な人格を、もっと大きな制度構造に埋め込むにつれて、自分の人間性を放棄できるし、また必ず放棄してしまう。これは自然がわれわれの中に設計した致命的な欠陥であり、ここからすると生き残れる可能性はごくわずかと言える。

 忠誠、規律、自己犠牲といった個人として大きく称揚される価値こそがまさに戦争という破壊的制度上のエンジンを作りだす。人々を権威の悪意あるシステムに縛り付ける。命令が正当な権威からきていると感じる限り、かなりの部分の人々は、行動の中身や良心の制約などにはとらわれることなく命じられたことをしてしまう。

 

補遺1 研究における倫理の問題

 

 批判もこの手法同様に予想外の結果に向けられているのはではないだろうか。予想 では人々はそんなことはしない、やった人は自分をゆるせなくなるというものである。しかし結果は最後まで服従し、それによって傷ついたことを示唆するものはない。1年後の精神臨床医による追跡調査でも、トラウマ的反応はまったく見つからない。

 

 こうした手順を最終的に正当化できる理由はただ1つ。それにさらされた人々に受け入れられ、容認されることである。従順な被験者が自分について述べる一番悪いことは、将来はもっとうまく権威に抵抗することを学ぶ必要があるということだ。自分が信念に従って行動している時と、弱々しく権威に服従しているときをきちんと認識できている人はほとんどいない。

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