『対話の奇跡』 R.L.ハウ(1970)
序
人類の将来は、人々の共存能力、すなわち、破壊的にではなく建設的に、防衛的にではなく、創造的に、共に生きていく能力いかんにかかっている。そのような関係は私たちに次のことを要求する。すなわち、私たちは、お互いに真のコミュニケーションをもち、お互いに心を開き、孤立の道を歩むかわりに、お互いに補いあいながらその相違を生きていけるように、様々な面で私たちと異なる人たちを本当に見、そして本当に彼らから聞くことを学ばねばならない、ということである。
第1章 対話の重要性
誰とでも敵となる可能性がある。対話を通してだけ、この反目から救われる。対話と愛とは、血と身体のように切り離せないものである。血の流れが止まれば身体は死ぬ。同様に対話が止まれば愛は死に、恨みと憎しみが生まれる。しかし、対話は死んだ関係を回復させることができる。これこそまさに対話の奇跡である。
こうしたことを可能にする対話の条件はただ1つである。対話は相互的であって、双方から出てこなければならず、双方が徹底的にこの原則を押し通さねばならない。一方が対話の言語を語っても、相手がこれを回避すると対話の約束は果たされない。対話的言語で語りかけることは冒険であり、両者がその冒険をする恐れを踏み越えるなら、対話のうちに隠された奇跡の力が明らかになる。
私たちは対話を次のように考える。各人の存在と真実が他者の存在と真実に対決させられるような、2人またはそれ以上の人たちの間の真剣な語りかけと応答である。対話の成就はやさしいことでも気楽なことでもない。まれにしか起こらない。
コミュニケーションは人々にとって命、あるいは死を意味する。マスコミュニケーションは確実に効果的に、人々の精神や感情、意志を攻撃できる。コミュニケーションの本来の役割は、互いに批判し助け合うことのできる共同体の内部や人間関係の中で、人が自己を発見する手段である。
個人でも社会でも、その根本的意味は人間関係にまでさかのぼる。個人は生まれた瞬間から、あらゆるニーズを満たすため、他者と出会い、この人たちに応答する人格存在となる。この出会いから家族共同体が生まれる。メンバーが人間として互いに対話をはじめ、彼らの共同体に対する責任をとるなら、そのグループは共同体になる。人が人格的存在になり、共同体を形成する奇跡を成し遂げるのは対話を通じてである。母親は子どもを愛し子どもに仕えることにおいて、自らを与え、自らを子どもに役立つ人格にする。他者を愛する行為は愛されるものばかりではなく、愛するものにも生命を与える。
愛には2つある。独白的愛は自己中心的に関係の情緒を楽しむだけで、そのために相手を利用する。対話的愛は外に向かう。利己的に相手を楽しむためにではなく、相手に仕え、相手を知り、相手を通して自らも存在しようとして、相手に向かう。結婚はこの関係の究極的なものである。相手の助けによって自分自身を見いだしていく関係の中では、人は一個の人格となるために、相手の存在をわかちあわねばならず、そこで一個の人格として自己を捧げなければならない。これを結婚で体得できる。
対話は真摯である。正直に自分の信念に基づいて話し、主観的な感情を制御し、忍耐強く相手をもう一個の人格として知ろうと求め、その関係の中で起こるあらゆることの意味に対して、常に心を開こうと努めなければならない。
相手をものとして利用し、または自分の殻に隠れると結婚は独白的になり破綻する。相手だけが態度を変える必要があると考えると、相手にだけ悔い改めを迫るようになる。愛においてあえて自分自身を与える冒険をし、何にせよ必要なら自らを変えていこうと努力するときにだけ癒しは起こる。
対話は親子関係にも有効である。また真理探究の場にも有効である。多くの人たちは信じる真理を独善的に、自己防衛的に、保持し、宣言するが、個々の真理は完全ではなく、他の真理によって補足されねばならない。政治にも対話の精神と行動が決定的に要求される。世界と教会の分離の現状にも対話の働きが求められる。教会がこの世に言うべきことは多いが、教会がこの世から聞かねばならないことはないという態度によって独白的になる。宗教の真の関心は宗教ではなく生命にある。教会の責任は各世代と対話的に語り、そのことによって彼らの必要を満たすことであり、それが教会自身の革新へつながる。
疎外の中で語られた言葉は、同じ言葉であっても関係の中で語られた言葉と同じ意味を持つことはできない。神のことばも、すでに与えられた人間のことばとの関係の中で語られる時、最もよく理解される。人間のことばを理解する必要がある。宗教的伝統が真の出会いのないままに、幾世代にも受け継がれていくと伝統は死んだ不毛なものになる。真理と生命の間に対話がある時、伝統は成長し、理解と技能を積み重ね、それぞれの新時代に挑戦する力を持つ。宗教の諸概念は人との対話の中で保たれ、その生活の中で確かめられる必要がある
教会はキリストにある神と人間との関係によって誕生した。教会の生命力はこの神と人との関係が続くかにかかっている。神の働きが内在する人格的出会いの中に、その意味を見いだすことによってのみ、この世の創造的な生命は保たれる。教育も同様である。
第2章 対話の障害
どの時代にもそれぞれ固有のコミュニケーション上の問題がある。非常に多くのものを読んだり聞いたりだけでは、「生きていく上で彼の決断と行動の確固とした基盤」を得られない。意志や感情を伝えようとして失敗する例が、人間生活のあらゆる領域で見いだせる。なぜコミュニケーションはこれほど徹底的に挫折するのか?
コミュニケーションをそれほど難しくしている障害は、コミュニケーションが言語のやりとりではなく、言語を用いて意味を交換することにある。目的を達成するまで、両者が相互に意味を交換し続ける必要があるが、話す人、話しかけられる人が共に、コミュニケーションの資料とともに、コミュニケーションの障害をもその会話にもちこむ。
どんな出会いにも意味がある。人々が出会いにそれぞれ意味をもたらす。ただ、その意味に気づかない、認識しない、受け入れられないこともある。「意味がない」の言明は、そこにある意味を見いだす能力が私たちにないことを示す。
コミュニケーションは、2人またはそれ以上の人間の間で意味が出会う時に起こる。
忙しさや他への興味で心奪われること、拒絶から疎外が起きること、意味を見失うことは関係を行き詰まらせコミュニケーションを挫折させる。「他の立場」の意味を、心を開いて受け入れられない。愛のメッセージが意味の障害にぶつかり、相手に届かず、満たされないまま自分に帰ってくる
コミュニケーションの障害とは意味の出会いを妨げる何かであり、コミュニケーションはほとんどの人が考えるよりずっと難しい。コミュニケーションは実際に起こることの方が不思議である。教育的側面で言えば、特に教師、牧師、指導者は、コミュニケーションの本質とは何か、コミュニケーションの障害、いかにコミュニケーションの責任を負うべきか理解させる必要がある。なお、この障害は破ることが可能で、意味の出会いは起こりうる。死んだ関係からでも関係を確立することができる。
障害が育つ土壌は、各個人が自分自身の存在のために感じる(人間の存在論的欲求からくる)必要と配慮である。誰もが自分の存在に対する既知、および未知の脅威との関係の中で不安を持って生きている(「私の生活には、私の存在に抵抗するものが非常に多い。」)私たちは存在の保証と確認、生き続けていく勇気を求めている。こうした自己への関心が、私たちを兄弟から孤立させ、コミュニケーションを困難にし、彼らの存在論的配慮を求める叫びを聞くのを難しくしている。
この不安は自分自身の存在の確信を見いだそうと努める要因になるが、それは他者の存在を脅かすこともある。生きる欲求は、自己正当化の生き方に駆り立て、不和を作り出す。この存在論的配慮によって率直かつ正直に話したり聞いたりできなくなる。これが人間内部に築かれるコミュニケーションの障害である。ここに例外はない。コミュニケーションの奥深さを知っている人も疑いや不安を経験する。
この存在論的配慮のプラス面として、お互いに1つになりたいという渇望がある。それは話したい、理解されたい、誤解される恐れを取り除いて人を受け入れたい、自分も受け入れられたいという衝動につながる。知られ、かつ知り、愛され、かつ愛さずにはおれない。あらゆるコミュニケーションは、私たちの存在への配慮を伴い、それに限定される。真のコミュニケーションを起こそうとするなら、自分自身と他者を肯定する欲求を受け入れる必要がある。この場合の呼びかけと応答においては、存在論的不安ばかりではなく、さまざまな形をとってあらわれる障害すべてを受け入れる必要がある。これらが呼びかけと応答の内容の一部であり、責任の一部でもある。
コミュニケーションの障害の第1として、言葉の障害がある。言葉の背後には関係の全生命がある。その関係から意味が生まれ、その関係において同一の意味を持つと規定される言語が選ばれる。ただ人は1つの言葉に特有の意味を持ち込む。例えば教会の「父」という言葉だ。それは聞き手にとって違った意味を持つ。それは聞き手の経験からその言語を取り巻いてきた感情的連想から起こる。言語の意味とは、認識的意味とその根底にある感情の連合である。後者は意味に生彩を与えるとともに、コミュニケーションを妨げる障害になる。言語によるコミュニケーションには、氷山同様、広大な隠れた領域がある。言葉の感情的要素はコミュニケーションを複雑にする。 例えば医者の言う手術は患者には死の宣告に受け取られる。(神の国などの)伝統的言葉を使う人の責任としてその用語の本来の意味を説明すること、人々がその意味を今日の生活に関連づけることを助けることが求められる。
コミュニケーションの障害の第2はイメージである。相手に関するイメージ、または話の主題に関するイメージがコミュニケーションをひどく妨げる。例えば先入観で「こういうだろう」などである。違う教派の牧師同士は、最初はイメージから歪曲してみている。お互いが相手の何者なるかを見いだしイメージを破ることで真のコミュニケーションに発展する。イメージのフィルターを通ることで、コミュニケーションは歪められ、人と人とは分裂させられている。どうすればこうしたイメージを破ることができるか。
コミュニケーションの障害の第3は、コミュニケーションの相手に対して各自が抱いている不安である。伝達すべき事柄に気を取られ、相手への配慮を欠き、自分の意図や目的を相手に押し付けようとする時、その人の内部で起こる心理的抑圧をアジェンダ・アンザイエティというが、これは教師と牧師に多い。彼らにとってコミュニケーションは主題を満足いくように伝えることであり、内容に関する不安がコミュニケーションを妨げる。より重要なのは個人の生活の意味とその真理の意味との出会いが伝えられることである。
コミュニケーションの障害の第4は自己防衛である。人間としての弱みから防御の壁を築く。自己正当化して、他人を誹謗する。例えば自分の欲求不満を他人の愚かさのせいにする。偏見に固執するなどである。あらゆる種類の自己防衛は、コミュニケーションを妨げる。コミュニケーションをする人は自分にも相手にも必ずつきまとう自己防衛の責任を取る必要がある。コミュニケーションの障害の第5は対立する目的である。例えば自分の立っている観点に賛成してもらえる保証を得ることにしか興味をもたないことである。これら5つの障害は存在論的障害とでも呼ぶべき私たちの存在への配慮の心理的、感情的兆候から生まれる。
独白(モノローグ)というコミュニケーションに関する一般的誤認がある。上記の障害に人は気づいておらず、取り組む用意がない。そのためコミュニケーションの本質を間違ってとらえている。よく「100回も言ったのに」というが、語ることはコミュニケーションの確かな手段ではない。「独白的コミュニケーション」とは、自分自身のことに気を取られていて、語っている相手の人との接触を失うことである。例えば牧師が語ることに気を取られると、会衆が意味を探求している事実を見失う。結果として福音の意味とその人の生活の意味が出会わない。独白的コミュニケーションの無意味さは明白なのに多くの牧師、教師が受け容れない。そこには彼ら自身の偏見や自己防衛がある。会衆や生徒の「愚かさ」に我慢できない。話し手の協力がなければ、経験と意味の修正を自分では効果的に果たせない。コミュニケーションの障害を打ち破れない
第3章 独白から対話へ
独白(モノローグ)というコミュニケーションでは人は自分のことしか考えない。他者は自分に仕える者、自分の存在を確認するための存在としか考えられない。こうしたコミュニケーションは寄生的で、本当に他者に興味を持たず、他者が彼のうちに起こした感情にだけ従って彼らを評価する。自分の存在が確かめられることを求め、人格的な出会いを恐れ、自分自身と自分の意見に賛同する者にだけ寛大である。それは不安のために閉ざされた言語であり、他者の利用、無視、逃避が特徴である。
一方対話(ダイアログ)とは、関係を妨げる邪魔者があるにもかかわらず、そこに意味の交流がある人たちの間の呼びかけと応答である。ありのままの自分を相手に与えようと努め、相手をありのままに知ろうと求める。自分自身の真理や意見を他者の上に押し付けようとはしない。これが対話の本質を示す関係、対話的コミュニケーションの前提となる。
私たちが本当に彼らを見、彼らをあるがままに知り、正直に語ろうと努める時は、彼らを尊敬し、コミュニケーションにおいて人間としてであうことができるような方法で応答するように、彼らを招いている。全ての純粋な会話は存在論的出来事である。人々の間の交流はすべて、そこで語られた事柄よりも深い意味を持つ。「他の立場を経験すること」は、対話の本質を規定したブーバーの言葉である。真の教師は生徒の側から見た学習過程の意味を自覚する。対話的ではない教育、関係、愛、コミュニケーションは人を利用し、専有するゆえに悪となる。
私たちが自分自身を知るのは、他者を知り、他者に知られることによってだけである。子どもは独自な自律的な存在とかかわっている存在として自らを意識する。私たちが他者に対する責任ある関係から離れて、自己にかかわるなら利己的と言える。「私」が他者との対話の可能性に開かれる時、自己にかかわることは価値がある。
偉大な人とは、生きること及び他者から教わることを通して与えられた人生の真実と挑戦に応じることのできる人であり、それでいながら自分自身の存在の統一を保つことができる。自分自身の存在の自覚を失うことなく、反対する人に出会い、力づけ、応えることができる。しかもかつての敵に負っていることを認める。彼の独立は対話の独立であり、反抗的でも攻撃的でもない。彼の依存は弱さでも病気でもなく、対話に固有の依存である。生活を他の人たちの生活とより深くかかわらせ、そのことで全世界の意味と真実にもかかわる。彼の生活と私たちの生活は対話の原則によって形成され、照らされる。
対話の原則と方法を区別することが重要である。対話の原則は、進んで話すばかりでなく、聞いたことに進んで応じ、素直に他の立場を受け容れること(本書はそれだけを代弁している)である。コミュニケーションのどの方法も対話的原則にたつことが可能である。例えば講演で対話的になることもできる。逆に対話的方法を用いて独白的コミュニケーションを行うこともある。例えば相手を打ち負かすためにグループプロセスを利用することもある。コミュニケーションの方法の議論は嘆かわしい。大工がかなずち派、かんな派といっているようなものであり、それは道具にすぎない。
コミュニケーションに従う人はコミュニケーションが拠ってたつ原則を知る必要がある。対話の原則は相互関連的思考、つまりものともの、人と人、意味と真理などの相互的関係を探求する思考が必要となる。これが障害を克服する対話の力である。独白は意味の出会いの障害を破ることはできないが、その障害を作り出すこともできない。独白は真剣に他者とかかわらないからである。真剣に他者にかかわる対話は言葉を人と人との間の純粋な出会い(再創造の媒介)の手段にする。
対話はどのように働くか。対話行動は「会話」に参加する者が相互に呼びかけることである。各参加者はある意味(価値、態度、理解)を両者の出会いに持ち込む。各人は存在論的欲求から他者を求める。各人はまさにその欲求ゆえに、可能な人間との出会いと意味の交わりを限定し、障害を築くようなやり方で行動し、話す。
各人はそのコミュニケーションが、言語の困難さ、イメージ、不安、自己防衛、及び対立目的の存在によって妨げられるのを発見する。障害は堅くない。折に触れ障害を破ろうと試みがなされる。なぜ失敗したかを知り、どうすればもっと信じあってコミュニケーションできるかを学ぶことができる。一方なぜコミュニケーションが成功したかわからない時が多い。これは個人間でもグループ間でも起こる。
対話が始まると話し手は自分の責任を受け入れ、柔軟な態度を取る必要がある。自分が知っていること、信じていることを表現する。受けてきた真理を証する責任を果たす。一方で相手に影響され自分が変えられる可能性も受け入れ「心を開いて」語る。そこに真に聞くこと、真の意味の出会いが起こる。対話において話される言語は開かれた言語であり、聞くことと意味の出会いが無限に続く。
コミュニケーションは障害がぬぐい去られた時にではなく、その障害がコミュニケーションの一部として受け入れられた時に達成される。理解を阻むものはコミュニケーションの一部であり、双方がこれを受け入れる必要がある。両方がそれを襲撃する必要があるが、両方の側にそれへのためらいがある。平等に関する疑問が存在論的疑問を起こす。例えば黒人と白人の間がそれである。
第4章 対話の目的
コミュニケーションについて2つの見当違いな目的がある。
(1)コミュニケーションは、人々の質問に対して私たちの解答を与えることではない
人々の質問に対する答えを与える能力を持つように思うのは特に権威者に多い。答えが与えられると学生を弱くする。質問に答えたい欲求は大きいが、そうしなければならない理由はない。与えられた答えが間違いだとうらむようになるし、正しくても自分で考えなかったので残念と思える。結果生きる力を弱める。
(2)コミュニケーションは相手を自分の意見に同意させ同意を保証するものではない
これはそこに至る過程における自己決定的な参加の結果起こるものである。同意の無理押しがあると、自由に応答できなくなる。自ら責任を持って対応できない。
コミュニケーションの目的は知識と意味が個人・グループ間で伝えられ、受けとめられる手段となることである。言語の言葉、関係の言葉ともにこの目的に仕える。真理に関する言葉が、その真理にかかわっている関係の中で具体化されるために、対話はこの2つの言葉の相互関連的・補足的使用を要求する。2者が関係を成立させるため、互いの相違点を解消しようと努めるなら、両者のうちに問題を相手の側からも理解する意欲がなければならない。相手の観点に立って、自分の目的を見ることが要求される。
コミュニケーションの第1のそしてより単純な目的の1つは、幾世代にもわたる研究と経験からなる知識と技術を、人々に役立つようにすることである。人間の世界と事柄の世界に関する累積された知識と、その窮極的意味とをあわせ、公式化し、同一化し、普遍化するという任務を併せ持つ。ただ世界に関する内容とその意味は、人間の生活と思考の産物であり、現代生活の要求に責任を持ってかかわりながら、現代生活の思考の前提となるべきものを明確にするすべを学びそれを身につけていく必要がある。経験から遊離した内容は生命のない形式になる。訓練を経ていない内容の未熟な経験は、形式のない生活になる。
コミュニケーションの第2の目的は、人々が責任ある決断を行うのを助けること(回答がイエス、またはノーであろうと)である。対話は両方の側に、自由に自分自身の決断をさせるということと、必然的に関連する。コミュニケーションは、否定的でも肯定的でも、責任ある応答が行われている限り成功である。ノーの決断はイエスの決断と同じく大切である。対話は開かれた言語であり、否定・批判に対して独白と異なった態度をとる。独白はその本質からして拒否に耐えられない。結論的言語を求め、否定的応答には前途が閉じられる。対話の言語は発端的言語であり、否定的応答を失敗ではなく、1人の人間が1つの観点あるいは確信から他の観点や確信へと移る過程の一部と見る。イエスという前にノーを言う必要がある。子どもの依存からの脱却などがその例である。否定的応答が本気なのかを確かめる必要がある。例えば感情的なものでないことを確かめるなどである。自分が本当に言いたいことを言うために、私たちが言ったことが真実であることを確かめるために、私たちは対話において互いに助け合う。
1つのことにノーを言うことは他のことにはイエスを言っていることになる。1つのことにイエスをいうことは、反対のものに対してはノーを言っていることを認める必要がある。さもないと決断に鋭さが欠けてしまう。例えば洗礼を受けることにイエスというなら、何にノーを言っているのか明確にする必要がある。他の選択肢が見えると、他を選ばれてしまう恐れがあるなら、イエスまたはノーの心構えができない状態である。確信は二者択一の対話からのみ生まれる。世俗主義、共産主義を教えないで、教会員になる準備はできない。対話の目的は、言語を行為へと翻訳することであり、同意はその人の生活の中に受肉する必要がある。
コミュニケーションの(対話の)もう1つの目的は、生命の形式を、その形式を生み出した生命力との関係の中へ連れ戻すことである。生命は常に何らかの形式の中で実現する。各形式はそれを生み出した生命力の証拠となる。例えば結婚は愛の生命力の証拠である。生命とそれを表現する形式の間には、正常な状態では緊張がある(緊張と葛藤は異なるもの)。例えばヴァイオリンの弦の緊張が音楽の創造につながるように、関係の生命力とその生命の形式との創造的緊張によって関係は進展し共に新しくされ創り変えられる。
緊張の苦痛を取り除きたいという思いから、生命そのもののかわりに生命の形式を選び取ることがある。そして例えば古き良き時代を懐かしむ。現在の可能性は、生命力と形式の緊張を受け入れ、創造性の危険、つまり現在の生命力に相当する新しい形式を見いだそう試みる危険をおかさない限り受け入れられない。対話の目的は生命力と形式の間の緊張を回復し、関係のある団体を互いにコミュニケーションのできる関係へと導き、彼らが画一性から自由になるようゆさぶり、彼らの変革を可能ならしめることにある。新生の奇跡は対話を通してだけ、関係の中で達成される。例えば教会生活の形式がそうである。
対話の最終目的は、人々を生かすことである。私たちは人格的出会いによって人となるのだが、人格的出会いは人間と人間との呼びかけと応答を要求する。被造物の世界に人間を縛るものはない。しかし人間は人格の世界を支配することはできない。他の人と平等な人間として出会う必要がある。他者である人間は、まさにその存在によってかれ自身の権利において、我の「我」に対する「汝」として認識されるべきことを要求する。この人間に出会うこと以外の何かをしようとすると彼は抵抗する。まじめに1人の人間として扱うか、彼との出会いから逃れるかしかない。
実際、逃れる多くの方法がある。自分の必要と相容れる彼のイメージの組み立てそれでかかわることがそうである。自分自身の自我の誠実を彼の自我の前に放棄して逃避し、2つの自我が両立しているふりをする。こうした人を癒す唯一の道は対話である。対話は他者である人間、すなわち汝と私自身との間に関係がなりたつ可能性だけを提供する。彼に語り、彼が自由に応答するに任せる。その交流から人間としての相互信頼の関係へと招かれることができる。対話の目的は、人々が再び一つとなり、真理を知り、神と人と自分自身を愛するために彼らを喚起することである。
第5章 対話にたずさわる人たち
対話とは、人間の関係であるとともに、コミュニケーションの本質を決定する原理である。すべての人の使命は他の人たちとの関係に入っていくことであるが、それは容易ではない。1人の人間であるためには、他者からの招きが是非とも必要である。それを待つ必要がある。その招きは、私たちから距離を置いて存在する人から来る。関係は距離(別個であることの別の表現)と、共に現在する両方を前提としている。相手に自己を埋没させ、排他的に一方を占有、没入することは対話に必要な両極性(距離)を壊す。
共同体(対話)の崩壊は人間が抹殺された時に起こる。抹殺は1人の人間が、その関係を真の目的以外に利用する時起こる。例えば友情の利用や子どもの支配によって人間を物の位置まで格下げする時起こる。人間を自分に役立つ利用価値としてみる時、人間を物に変えている。見られたいイメージの役になりきることは人間であることをやめてしまうことになる。ここでは対話は不可能になる。全的で、正直な応答は望まれず、阻まれる。これによって独白になる。独白は疎外と分裂を助長する。
対話的人間は、言語あるいは関係によって、その環境(ひと、もの)とコミュニケーションを持ち、その環境が提供するコミュニケーションを率直に受け入れる人のことである。いろいろなタイプで現れる。競争取引の中でさえ、人格的出会いが生まれる。対話的人間は全的な真正の人間である。他者に向かって全存在をかけて応答し、理性だけではなく心情を持って聴くことができる。本当にそこにいる。教えると同時に学ぶこともでき、愛するばかりでなく、愛を受け入れることもできる。自己防衛的ではなく、仲間と関係を持つことを喜び、彼らに負っていることを認める。同時に独立しており、彼自身であるものとそうでないものを区別する。自分の前に立つ人を、自分自身を与えることのできる対象とみなす。人を利用したりイメージに押し込めたりしない魂を職業や名声のために『売り渡したりしない』。自分のためには天国の片隅さえ取ろうと思わず、ただ神が天国の主座を占めることを願う人である。
対話的人間は率直な人である。他者に対して自分を啓示する積極性とその能力と、他者の啓示を聴いて受け入れる積極性とその能力を持つ。啓示とは神の行為を説明するもので、神の被造物としての人格的行為であることを説明する。見せ物や展示と鋭く対立する。啓示は自分自身に関する資料を知らせることでも、力や能力を誇示する意味でもない。関係の全体的な意味と生命力が深められるような方法で、言語あるいは行為によって他者に臨むことを意味する。自分自身については語らず、彼の仲間が自由に応答できる意味を自分自身の内から差し出す。
コミュニケーションの(=創造の)危険を引き受けなければならない。例えば子どもが差し出したものが喜ばれないと自分を閉ざしてしまう。グループで批判が喜ばれないと、グループに貢献するのを躊躇する。差し出したものが床に落とされてしまい、誤解を受けてしまうこともある。率直な人はこれらの危険を知り、恐れる。しかしその危険を受けとめ、純粋なコミュニケーションが起こる時には感謝する。他の人々の応答を(それが何であれ)コミュニケーションにおける全体的な学習の過程として重要なものと受け入れる。
対話に創造的にかかわる人は、確信のある人であり、その確信は純粋に彼の基本的性格にかかわる。他の人たちの確信を認めて受け入れ、自らを啓示するよう真実に求める。私たちは信念の深みから語りかけ、勇気を持ってその信念のために闘う人たちと共に生きる経験を必要とする。他の人たちが彼とともに成長するのを助けつつ、自らも成長する。率直な人間は自分自身を他の人に啓示する能力を持つばかりでなく、彼らの人格的啓示を聞いて受け入れることができる。神は他の人を通しても私たちに語ることができる。私たちが対話において言うべきことは他の人たちの疑問や批判によって喚起される。
対話的コミュニケーションにおいて聞き手は話し手と同様に重要である。注意深く聞く個人やグループ(注意を集中し、興味を持って)がいるとよく話すことができる。話し手を喚起し力を与え話し手の孤独を癒す。例えば説教においては会衆がその説教を強力に強靭にする。一方無関心な態度は私たちが自分自身を表現する能力を封ずる
コミュニケーションは時に孤独で、勇気を要し挑戦的である。コミュニケーションにおいては相互に聴くことと、聞くことの責任を取る必要がある。いかなる交わりも聞くことによって偏見、自己防衛、誤ったイメージからお互いを解き放つ交わりであるべきである。偏見、自己防衛、誤ったイメージは私たちが弱みを持っている時に自分を守る手段となる。対話的手段は人間の疎外と分裂からくる孤独を癒す薬となる。
対話的人間は対話それ自体の意味と影響に対し、率直である必要がある。対話の行為によって他者の存在に目覚める。対話においては、互いに発見し確認しあう人間ばかりでなく、会話の意味も重要となる。内容は関係と生きた関連を持つ。対話は意見のやり取りの内容と意味に対する鍛錬された注意力と受容を要求する。その意味が苦痛であり、心を乱すため多くの人はその努力をしない。
対話の意味は2重の資料、当事者の対話への参与と彼らのコミュニケーションの主題の両方から来る。率直な人は両方の資料に深く耳を傾けることができる。それは他者の生活と経験の意味に参与していく能力である。例えば学生の反発を対話で起こる当然の要素とし、学びのための要素の一部と考える。そして学生の反発の背後にある疑問、恐れ、不安などを知ろうと耳を傾ける(参与)。参与では相互性が必要となる。学生が先生の生活の意味に参与することもゆるす必要がある。自分の生活の意味に他人が参与することを受け入れられないと、私たちの多くが孤独となる。
対話的人間は熟達した人である。自分と他者のために責任を引き受け、関係が提供する機会だけでなく、限界も受け入れることができる人である。指導者にはしゃべりすぎ、言いたい放題になる危険がある。語られるべきことを言わず、なすべきことをなさないこともある。したがって2つの訓練を守る必要がある。
1、対話においてみずからを与える訓練
どんな危険があり、その成り行きがどうであろうとも、語られるべき時には語り、行動が要求される時には行動する責任を負う訓練である。それは他の人たちの貢献と関連して、自分も貢献する訓練でもある。私たちが彼らに負っていることを認め、多くの人たちにとって魅力的である「プリマドンナ」の役割を退けることを意味する。
対話的思考は、勇気と強さと思慮深い成熟を要求する。真理に対して自己を与え、何であれ、来るものを拒まない。自分の自己中心を鍛え直す必要がある。苦しい、しかしわくわくする真理との葛藤によって、1人では到底なし得なかった偉大で深遠な洞察と理解が生まれる。この過程の真ん中に神がおられ、神が私たちの対話を通じて、私たちを彼の啓示にたずさわらせた。
対話に携わるのを差し控えると起こるべきことが起こらない恐れがある。自分を与え恐れつつ危険をおかす訓練を実行する必要がある。話しなさい、そして言語と行動を解き放ちなさい。それが応答を呼び覚ますことがあるだろう。それが私たちの責任である。
2、自分自身の位置を守り、他の人たちが自由に応答し、行動できるようにさせること
コミュニケーションの障害は、前もって結論を出し他人の応答を推定、応答を見越すことである。これは計算された独白で、コミュニケーションはイメージの袋小路へ陥る。ここには相手を自由にするとどうなるかわからない恐れ(イメージや先入観から来る疎外よりもこちらをおそれる)がある。語るにも、行動するにも応答を待って、できるだけ正直にその応答に従う訓練が必要となる。ありのままの相手を知る必要があるのだ。
対話的人間は他者にかかわる人であり、他の人に応答し、責任のある応答ができる人である。私たちは相互に結びあわされ、依存しあっている。「私は私自身でありたい。他人に依存したくない。関係の中の義務を負いたくない」となると互いに離ればなれになる。根本的関係性が生活と愛に必然として受け入れられないと、関係は裂かれる。対話において人は受容したり、されたりする。対話において語られる言語は危険の中で行われた信仰の行為である。
対話的言語は率直な言語であり、始まりの言葉である。応答を招く期待の言語でもある。対話の言語を語ることにおいて、人はみずからを真理の脅威にさらし、神の僕となる。神の召命に対する忠実さは、信仰の度合いではなく、お互いに自己を与えようとする積極性とその行為において、私たちお互いを通して神が働きたまうことを率直に認めることによって測られる(彼を通じて生命を与える神の言が語られる)。
第6章 対話の危機
対話に携わる人たちがお互いに呼びかけあい、応答しあうことに失敗し、自分の中に閉じこもり、自己を正当化するために自己防衛的に身構えると対話の危機が発生する。人間関係の中で他者によって行われるべき是認にかわり、自己是認が起こる。不安と疎外は、その過程で増大するばかりとなる。生活状況は、常に他者から認められることを求めている場であり、そこで認められないと自分で自分を是認するようになる。
私たちの内部に、自分を肯定する力と破壊しようとする力の内的葛藤がある。愛の経験、生活の意味と調和を自覚するのに役立つ経験は私たちを強くする。人間の有限性、罪性、無目的性に気づかせる経験は存在の実感を弱める。自身の確認を得る手っ取り早い手段は他人を利用することである。しかし他人を利用することは、自己の敗北を意味する。その葛藤の中で自分と他者の両方を見失う。なぜなら重要なものがそこでは失われているからである。
対話の危機としてまず、他人の利用(自己正当化)によって失うものがある。両者の相互信頼が失われ、対話に必要な関係が破れる。相手を警戒する必要が出てきて、コミュニケーションの内容を前もって計算する必要(身の安全のため言葉を使う)が生まれる。こうして対話は断絶し、その断絶が相互不信を深める。真理を把握することは対話の知恵とならず、他者と闘う武器になる。
対話の中断の第2の悲劇は破れて捨てられた関係の犠牲になった人が死ぬことである。人間は関係においてのみ生きる。人間として死につつある兆候として無感動、皮肉、敵対的、ねたみ、破壊的競争心がある。形式を求め、生命力に代える。形式への隷属は生命力から疎外された人間の最後の望みである。ある種の教育は対話を中断させ、人間の創造性を破壊する。
対話の中断の第3の悲劇は神を失うことである。パリサイ人は1人でこう祈ったとあるが、独白的人間にとって神は死んだようなものである。生命は豊かな可能性を失い、慣習の中に包み込まれ、宗教という貯蔵庫に蓄えられた形式にすぎなくなる。神概念をもって、神に応答する生き方にとって代わらせようとすると神は死ぬ。ブーバーは、神は正しく呼びかけられるが、正しく表現され得ない唯一の存在としている。「私たちが神を教える」というように私たちが主語になるのは間違いである。
対話の危機は、当事者間の闘いのうちになる諸力から起こり、各当事者の内部にある競い合う未確認の諸力によって複雑になる。両方の主人公の内に働く強力なニーズは、自分自身を救うことであり、正当化の欲求を考慮する必要がある。正しくありたい欲求は非常に強く、関係を犠牲にし、敵意と残忍性を生むことがある。正しくあるためならどんな損失でもいとわない(葛藤の中で両方がそうなる)。自己を救うこの欲求には、相関的に他者を犠牲にする欲求が内包され、教師、教会、神さえ犠牲にされる。
対話の危機のダイナミックスで働くもう1つの要素は真理の訴えである。真理の霊はあらゆる真の対話のうちに存在し、その当事者を通じ、彼らに働く。この霊は勇気と自由のあるところに存在する。葛藤の過程において、真理の現在の働きに対して、心開くことも閉ざすことも可能である。今起こっていることが学びの一部として、どんな意義があるのか、相手のもたらした意味が何であったかを検討することで、真理が彼らの恐れと自己防衛から解放される。
対話の危機には5つの要素がある。
1、自己を確認しようとする、それぞれの側にある動因
2、目標を達成しようとして、各人が他者の内に感じる脅威
3、自分自身を救い、正当化しようとする、それぞれの側にある欲求
4、自己を救うために他者を犠牲にしようとする、それぞれの側にある欲求
5、あらゆるものを、それ以外のあらゆるものへと動かす目的を持った真理の霊が、この危機に参与すること
人間状況の悲劇と悲哀は、真のコミュニケーションの可能性に対し何度でもノーがいえることである。さらに深い訴えに対して、唖やつんぼになっている。コミュニケーションの可能性と危険は非常に大きい。誰が私たちを救ってくれるか。新約聖書にはキリストが唖やつんぼを癒すという記事がある。これこそ対話の奇跡である。
危機に陥った対話の再開には助けが必要である。その冒険に必要なことは勇気である。粘り強くやりとげる勇気、イニシアティブをとる勇気、受け入れられないかもしれない申し出をする勇気、無視されたり誤報されたりする反応に耐える勇気である。これによって解放感を経験できる。コミュニケーションの危険を引き受けるには、本当に他者とかかわるために持てる力を全て結集し、彼らの観点から人生を見る純粋な愛が必要で、安全と確認を求めて安易な近道をする誘惑を制御する必要がある。
対話を一貫する原則は「私のためまた福音のため、自分の命を失うものはそれを救うであろう」である。自分が何かを得るためではなく、与えるために対話にのぞむ。自己防衛的欲求からでなく、他者との関係の中で生命を確かめることで、生命の保証を得たいという祈りを持って対話に向かっていく。誰かがイニシアティブをとり存在をかけて相手の存在を確認する必要がある。
教育者は自分が学生に何をすることができるかを問う必要がある。真の人間形成は人と人との出会いを通して起こる。学生に影響を与えようとする前に、彼らを受け入れることは学ぶ人の信頼を生む。学生が真の問いを始め、自治をはじめる。学ぶことの苦痛(感情的、防衛的)は教師の試練となるが、自分自身、価値、学生に対し人間として真実である必要がある。この種の出会いは困難だが教育的であり、自分自身の信仰によって教師の役割を果たすことができる。ただ教師も贖罪が必要である。
教会が世界との対話に生きていないと世界への責任を果たすことはできない。霊的貴重品をしまっておく安全保管庫のような自己防衛的イメージから、主の霊の受肉である教会のイメージへ変えられる必要がある。世界と対話によって教会自身が知らされ、訂正され、浄められる。1つの見解に固執し、敵意と頑迷な信念を培養し人々を分離する独白的グループは他の立場を経験できない。対話に携われない。対話的役割とは1つの立場をとらないことではない。反対に1つの立場をとることである。ルターの「我ここにたつ」というこの行為以前は対話も改革もなかった。それは対話の端緒を開いた。
第7章 対話の成果
残る問いは、「私たちは対話に何を期待できるか」、「対話の成果は何か」である。対話は私たちを導いて、愛の関係の中で真理に直面させる。こうした人と人との出会いは、神と人との出会いが内在しない限り、起こりえない。本当に他者をみることは、<絶対他者>をみることである。真に他者によって知られる、愛されることは、神によって知られる、愛されることである。対話はコミュニケーション以上のものである。その中で互いに知らされ、浄められ、照らし出され、そして自分自身と隣人と、神に結びあわされる交わりである。
対話の関係においてのみ聖霊は働く。聖霊は人を対話へと招き、対話を可能にする。聖霊の成果は人間関係との関連で達成する。最善の人間関係は対話的である。聖霊の成果をそこに求める、つまり愛、喜び、平和、忍耐、親切、善良、忠実、温和、自己制御である。これらを抽象的に見ずに、それを生み出した過程とともに見る必要がある。こうした対話は人と人の間に、リーダーとグループの間に、知識と諸領域との間に、管理職と労働組合の間に、国家の間に起こりうる。
対話による変化は次のとおりである。
1、対話は、対話的人間の特徴を私たちのうちに形成する
元来こうした能力をもっていなかった人も対話を経験することで、コミュニケーションの障害、関係の障害を受け容れ克服する勇気が生まれてくる。臆病さが勇気へ、自己防衛は確信をもって前進する力へ変えられる。
2、対話は経験の意味を変えることができる
失望、苦悩の経験は、失敗や破滅のしるしから新生の契機へと変えられる。成長、変化、学習が期待されるところでは、苦痛、不安、疑惑も受け容れる必要がある。苦痛を恐れて避け通してきた経験を受け容れることができる。苦痛は今でもあり、疑いと恐れは残っている。しかしそれらを受け容れることで、それらを越えた強さと充実感が生まれる。
3、対話を通して、人生に新しい可能性が生まれる
出会いによる新しい世界の発見が起きる。対話によって創りかえられ、話す能力、自由に応答させる能力を得た人は、さえない人間状況のように思われたものが、新しい冒険への契機になっていたことに気づく。関係の意味と人生の意味という、自己の足の下にある宝を知らないで、あてもなく歩む探鉱者のようである。
4、対話において真理の包括的・相関的特質が啓示される
個々人の真理の捉え方は、狭く限られている。反対の見解を持つ人たちの検証を受けることによって、より公開的な真理把握を目指す必要があり、これは人と人との真の出会いによって遂行される。すべての人が人間の理解と知識に貢献するものを持っている。それを可能にする環境が必要だが、それが対話である。人が分裂した自己と、他の人たちと、そして神〜すべての真理の源、啓示者であり、その霊は、人々が互いに正直に心を開き合う時にだけ、人々を自由に導く〜と一つになることが対話の成果である。
第8章 対話とその前途の課題
対話の目的の1つは、生命力と形式の間の緊張を回復することである。生命力とは「新しい命をかきたてる」ことであり、生命力にはそれを表現する独自の形式が必要とされる。一方、形式は常に生命力を虜にしようとして、形式を新しくされることに抵抗する。生命力の挑戦を受ける私たちの態度は複雑である。人は霊であり、疎外された自我ではなく、本来的な究極的実在に呼応する存在になる必要がある。既存の形式には決して満足しない。彼の内部には自己保全のために生命力を捕らえて閉じ込める欲求と、既知の形式を破って、人間形成にふさわしい新しい形式を見出そうとする欲求が同時にあり、それによって変革が実現する。
内なる霊が、創造性に賭ける恐れを克服し、生命力の刺激に呼応すると対話の契機になる。生命力は試す必要があるし、霊も真実かどうか見極められる必要がある。しかしこれには制御も訓練も経ない野生が潜むので対話によって試みる必要がある。野性的特質は生命力と形式のかもす緊張の一部として受け容れる必要がある。例えば青年期の生命力のグロテスクな表現などがそうである。馬の気質を損なわないよう訓練が必要となる。教育過程で生命力の野生の表現を考慮しているか。神学教育含め、すべての教育は多くの学生の創造精神をちっそくさせ、関連性のないバラバラの知識を教え込む。知識の形式が、生き、かつ考える上での生命力にすりかえられる。
宗教は、霊の生命力と運動の波動に対する飼いならされていない、型にはまらない反応に注意を払うだろうか。神学校卒業生は、異端になることを恐れ、大胆な創造的考えを持てない。正統と異端は二者択一ではない。正統的信仰は新しい欲求と資料を取り入れながら、その過程である見解に到達し、その見解を検討し、切り捨てた後に残った、真理を巡る正直な思考の結果生まれる。
独白的保守主義は、自己以外のどんな価値に対しても盲でつんぼであり、キリストと霊の教えに対立する。真理への所有欲は画一的生活と不毛な正統的信仰を招く。正統的信仰は到達点ではなく、目標は新しい生命、新しい意味、新しい被造性にある。反動精神の圧力を克服して、どうすれば人は存在と行為への勇気を、信仰の内に見出すことができるか? “有限の生命が持つ変化と機会”から生まれる危機が、私たちの生活に挑みかかる。臆病は私たちの創造性をちっそくさせる脅威となる。危機の際、臆病に殻に閉じこもる癖があると、形式を盾に取って新しい生命と真理の挑戦を逃れる。対話の一貫した偉大な課題は、生命力と形式の間の緊張を回復することであり、真理を統一し再生する力を、たえず見出していくセンターにすることである。