・カール・ロジャース(1982)『エンカウンター・グループ』 創元社
1、グループ観
ロジャースはまず、グループが共通に持つように思われる実践的仮説を提示する。それは以下のようなものである。ファシリテーターは自由な表現と防衛の現象が徐々に起こるような安全な心理的雰囲気を発展させられる。こうした心理的風土では、他のメンバーや自己に対する即時的感情が表現される傾向が生まれる。こうした相互信頼の風土は肯定・否定を問わず真実の感情を表現する自由から発展する。メンバーは潜在力を含め、自分の情緒、知性、身体よりなる全人をあるがままに受容する方向へ動く。
個々人に防衛的固さからくる抑圧が少なくなると、個人の態度や行動、仕事のやり方、管理上の手続きなどの変化をあまり恐れなくなる。防衛的固さの減少に伴い、個々人は相互に耳を傾けあい、お互いから学びとることが大変よくできるようになる。個々人が自分は他人にどう映り、対人関係にどのように影響をもたらしているかを学ぶフィードバックが次から次の人へと発展していく。
このように自由が拡大され、コミュニケーションが改善されると、新しい考え、概念、方向付けが起こってくる。革新は恐ろしい可能性でなく望ましいものになる。グループ経験でのこのような学習は、その後の家族・同僚などとの関係にさえも、一時的・永続的に持ち込まれる傾向がある。ただこれらはリーダーの操作性が大きいゲシュタルトセラピーには妥当しない。もしこうしたことにならない場合、グループのファシリテーターの考えによることが大きい。
グループについてロジャースは自身で次のような哲学を表明している。グループは、グループの潜在力とメンバーの潜在力を発展させる促進的な風土を自ら持っている。これは畏敬に値する。ここにはグループ・プロセスへの絶大な信頼がある。これは個人の心理療法の過程で、指示を与えるより促進的である方が個人を信頼するようになるのと同じである。
グループは一つの有機体であり、それ自身の発展方向を持つ。いろいろなグループの動きは、それぞれを平等に信頼する。特定の目的をもちこまず、グループ自身の方向が発展するのを心から願う。個人的偏向や不安から特定の目的をもちこむと、グループは注意深くその目的をつぶすか、その目的を持ち込む人の問題に長時間を使うことになる。ファシリテーターが特定に目標に向けていくことはない。このように基本哲学では個人治療となんら変わらない。
しかし行動は全く異なる。希望としては促進者であるとともに、参加者になっていくことである。ある時は他のメンバーの成長を支援するため、自分の感情、態度、考えを表明し、またある時は成長という賭けへ自らを開くという目的で同じことをする。各側面が私の真実の姿であり、役割をとっているのではない。
2、ファシリテーター観
エンカウンター・グループでは感情および認知両面を伴う全人間が参加してほしい。自分も思考と感情を同じように持ち、感情に思考が沁みとおり、思考に感情が沁みとおるように全人間が十分に現れることが可能になるよう努力したい。
まずファシリテーターは風土作りの機能を果たす。グループでリラックスしグループを信頼する。「何が起こるか分からないぞ。でも何が起こっても大丈夫さ」という風にである。リラックスしていること、指導していこうと思わないことが他人を自由にする。
また自分を表明する人に対して注意深く聴く。話している個人こそ重要で理解に値する。それはその人を認めていることになる。内容ではなく、語っているメンバーに関心を集中し、それらの経験が彼にどういう意味を持つのか、どういう感情を引き起こしているかに関心を持ち、そういう意味や感情に反応しようとする。
またグループの風土が心理的に安全であるように願う。最低一人は彼の言うことを尊重しつつ正確に聴こうとする、言葉に耳を傾けてくれる人がいると感じてほしい。成長の苦痛、フィードバックを受ける苦痛を味わう時、心理的にどこまでも彼とともにいることをその個人に感じてほしい。参加者が恐れたり、傷ついたりしている時、感じ取り、言葉か何かで、私がそのことを認めており、彼がそのいたみや恐怖の中にいる時の道連れであることを知らせる。
グループとグループ内の個人に対して大きな忍耐度を持つこと、グループをそのままに受け容れることが究極において非常に報いが大きい。例えばコンテンツに走る、個人的コミュニケーションを恐れるなどをたまらないと感じない。彼らには雑談する権利があり、私にはそれを我慢しなくてもよい権利がある。席を立つなど自分ができる限り意識して、私の行動を私の矛盾した感情に一致させようとして、それぞれの感じ方を持つ権利がある。
ある種の演習の導入が、いま・ここへ、または感情レベルに近づけることができるのを知っている。しかし追跡調査では、そういう手段によって得られた効果がその時の満足で終わることが多い。「わたしを開いてくれたすばらしいリーダー」のような門弟を作ることになる。一方ただし、二度とひらきたくない!というような否定感を引き起こすこともある。ありのままのグループとともに歩む報いが大きい。
従ってメンバーがグループに参加していてもいなくても、心理的に引っ込んでいても、それを許す。引っこんでいることができる、それが居心地がいい。強制されないでいられる学びがある。また沈黙、発言しない人の場合、それが苦痛や抵抗を表わしているのではないと確信できれば受けいれることができる。
話されたことを額面通り受け容れることで、ファシリテーターとしてだまされてもよい。「彼が本当に言おうとしていることは」などと思いめぐらせることで時間を浪費しない。また過去経験より現在の感情の方に良く反応する。しかし両方があってほしい。<いま・ここ>だけの規則を好まない。
何でもグループの選んだことから起こっていることを明確にしていこうと努める(明確であれ、模索中であれ、意識のあるなしにかかわらず)。自分がグループの一員になっていくにつれ、自分から影響を与えることを分担しようとする。だが、そこに起こることをコントロールしようとしない。
個人が伝えようとする正しい意味を理解することは、グループにおける私の行動で一番重要で最も多くみられる。もつれあったことを探り出し、それがその人に対して持つ意味を追って確かめようとするのもその理解の一部である。
話が一般的・抽象的である時、全体の流れに照らして自己関与的意味合いを選び出す。例えば「それはあなたがそのように感じるということでしょうか?」や発言に対する質問として「あなたが彼に対して何かいおうとされているように思うんです」などである。自分自身の感情を誰かに代弁させようとするには、非常によくあるパターンであり、異なる感情が表明されつつあるという私の理解を、異なった見方を自分の言葉で伝えることで相違点を際立たせ明確にする。
私の感情に従って動く。自分の感情が起こった時点で、それを利用するということにだんだん自由になることを学んだ。メンバーひとりひとり、グループに対して、純粋な現時点での関心を持つ。永久に続くものでないからこそよけいはっきり感じる。
ある人が苦しみ、悲しみ、怒りなどを感じかけている瞬間に大変敏感になる。特に傷ついた人に対して理解し共に歩みたい。ある個人やグループに対して何らかの持続的感情を経験した時、それを口に出すよう努める(そしてその瞬間不適切だと思うものは表明しない)。自分の内部で起こる感情、言葉、衝動、空想を<信頼する>。意識化した自己以上のものを利用し、私の有機体全体の能力のあるものを引き出している。
直観はもう少し複雑で、重役の中に少年の面影を見る時、空想を真実ではなく、空想として表明する。否定、不満、怒りなどとともに、肯定的で愛情のこもった感情も表明したい。ただし初期にあまりにこれをすると、否定的なものを出しにくくなる。
その時起こる感情を、意識過剰にならず表明できるのがよいことである。私は自分の<所有している>感情が、肯定的なものであれ、否定的なものであれ、参加者の持つ感情と直接の相互交渉をもつ時、グループの中で最上の機能をしていると思う。私が到達できる<われ―汝>の関係に一番近い。
質問を向けられた時、真実質問以外の何物でもないと感じる時、誠実に答える。でも質問という形をとっているがゆえに答えなければならないという社会的束縛は感じない。「私自身という玉ねぎの皮をむく」ようにグループの中で一段一段より深い感情に気づいていくにつれ、次々と表現していく。
個人の行動のある種のものには対決する。自分の気持ちを積極的にさらけ出すことによってのみ、相手と対決することを好む。個人の自己防衛に攻撃を仕掛けるのに断定的態度をとる場合がある。例えばあなたは敵意を隠しているようだ。割り切りすぎるが、自分の感情を恐れているのではなどである。こうした断定や診断は促進的ではないと感じる。
その人の冷たさに不満を覚えたり、知的割り切り方にイライラしたり、横柄な態度に腹が立つ時、私の中に起こっている不満、いらだたしさ、怒りを彼に直面させたい。このことは非常に重要なことである。ただ他の人に対決されて困っていると思われる時は、枷から逃れるのを援助する。相手の考えを確かめながら進む必要がある。
自分の日ごろの生活で何かに悩んでいる時は、グループの中で表明することをいとわない。ただし、専門家として報酬を受ける以上、自分の問題で時間をとりすぎない。しかし混乱している時それを話さないでいるとグループに悪影響もある。自分の問題を表明しない場合の不幸な結果として次の2点がある。
1、私が他の人のいうことを十分に聞けない
2、グループが、私が混乱していることを感じ取り、自分たちが気づいていない過ちを犯しているのではと感じる
また計画されたいかなる手だても使わないよう心がける。メンバーが選択すべきである。人が実際にその時感じていることを表現するように思われる時(真に自発性がある時)、ロールプレイ、身体接触、心理劇などを使ってよいと思う。
グループ・プロセスの注釈は極力控える。それはグループに自意識をもたらしがちで、吟味されているような気持を起こす、メンバーを人間としてではなく、ひとまとまりとしてみることになり、メンバーとともにいたいというあり方に反する。グループ・プロセスに対する注釈の最善のものは、メンバーの間から自然にでてきたものである。同様に個人に関するプロセスの注釈もしない。背後のあるものを探ったり、原因を推量しない。例えば「あなたが男として不十分であると感じているので、空威張りをする・・」などである。これは権威者の行動となる。
精神病的ふるまいや奇怪な行動など非常に重大な状況が生じた時は、グループ・メンバーを信頼するのがよい。彼らは治療的(自分よりは)になりうる。専門家は診断名にとらわれる。自分を引っ込め、その人を対象としてとらえる。一方素朴なメンバーは、この扱いにくい人に人間としてかかわり続けるが、これははるかに治療的になる。メンバーが明らかに病的行動をとるときもグループの示す知恵を信頼できる。
こうした観点からは次のような行動は非促進的になる。
(1)時流に乗って名を売ろうとする人
(2)ファシリテーターがグループを無理に押し進めたり、操作したり、規則を課したり、自分の暗黙の目的に向けようとする。ファシリテーターへのグループの信頼は減少することもある。もっと悪いのはメンバーを信心深い追随者にしてしまうことである。
(3)グループの成功・失敗を劇的であったかどうかで判断。 例 泣いた人は何人?
(4)ある一面的方法をグループ・プロセスにおける唯一の基本要素と信じるファシリテーターは推奨できない。例<防衛を打破すること><基本的怒りを引き出すこと>
(5)自分の問題が大きい人はファシリテーターになると不幸。
(6)グループ・メンバーの行動の動機や原因の解釈をしばしば与える人をファシリテーターとして歓迎しない。解釈が不正確なら役に立たない。的を射ていても極度の防衛を引き起こし、防衛をはぎ取り、終了後傷ついたままにしてしまう。
例 あなたは隠された敵意を持っている。
=数か月その人を苦しめ、自己理解の能力に多大の自信欠如を与えてしまう。
(7)ファシリテーターが「さあみんなでこれから・・」といって演習や活動を導入するのを好まない。個人が抵抗しにくい。何かの課題を導入する時は、メンバーがその活動を選択するかどうかを決める機会が与えられるべき。
(8)グループに個人的、情緒的に参加しないファシリテーターを好まない。熟練者といわんばかりに超然としていて、グループ・プロセスやメンバーの反応を優れた知識で分析する。生計をグループで立てている人によくみられる。自分自身を防衛し、自分の自発的感情を否定し、グループにモデルを与える。参加者に対する尊敬が全く欠如している。
こうした文脈からロジャースはグループにおいて目的を設定せず、メンバーひとりひとりが独自の目的を展開させることを重視している。その中で、グループは次のような変化をもたらしている。
まず個人が自分自身の自己概念をかなり変えていく。多くの人が自分の可能性に気づき、実現させ始める。結果として哲学的、職業的、知識的にまったく新しい生き方を選ぶ人が出てくる。また人間関係でも配偶者、子どもとのコミュニケーションの深さが奇跡的に変化する。初めて真実の感情が交流することがある。思いやりと信頼に満ちた学習集団への変革、職場を建設的に変革することも起きる。また夫婦の片方がエンカウンター・グループで洞察と自由を得ることで、相互の溝が増大することもあるが、これは夫婦の潜在していた相違点に直面したからであり、真の和解に達する、または越え難い溝を認識することにつながる。
一方、個人は変わったが組織は変わらない例、また変わった例もある。人間相互のコミュニケーションが企業精神の核になっていった例もあるし、組織から離れる人も出てくる。変革や成長はしばしば個人の人生に嵐をおこす一方、必ずと言っていいくらい組織にも嵐を起こす。伝統的管理者には最も脅威的な経験となる。
3、人間観
ロジャースによると、私たちは歴史のどの時代よりも内面的孤独を自覚しているという。私たちは孤立性と分離性にさらされている。「私であるとはどういうことか、あなたにはわからない。あなたであるということはどういうことか私にはわからない。」誰もが一人で生き、一人で死ぬ必要があり、それとどう折り合うかが私たちの課題となる。
つまり自分の分離性を受け入れ、喜び、自己を創造的に表現する基盤として利用できるか。それともこれを恐れ、そこから逃避しようとするか。人が他人と真の接触がないと感じる時存在する孤独は、人との断絶を感じさせる要因となる。もっと深くもっと共通な孤独の原因は、自分が世間に見せる顔を脱いだ時、一番孤独であり、あからさまに示した自己の内部を理解し受け容れ、構ってくれる人はいないと感じることにある。
私たちは人生の初期に、自分の感情をありのまま表わすより、重要な他者から認められるような仕方で行動するほうが、愛されるらしいことを学ぶ。みせかけの行動でもって外界と関係を保つ殻を身につける。薄い殻である時も、装甲のようになり内にある真の人間を忘れ去っている時もある。
自分を見つめようと、または攻撃で防衛が砕かれ、自分の仮面を(一部)取り去ると、例えば子供っぽく、感情豊かで、欠乏感と満足感、創造的衝動と破壊的衝動を伴った自己、不完全で傷つきやすい自己があらわになる。この隠された自己を理解したり受け容れたりできる人は絶対にいないと思える。
その人は人生の意味が自分の仮面で外的現実とかかわるところに存在しないと悟る。その時、孤独は絶望にかわる。孤独にはいろいろな水準、いろいろな程度があるが、しかし孤独が一番こたえるのは、個人が何らかの理由で防衛なしに、評価的世界では拒否されるような傷つきやすく、おびえた、孤独な、しかし真実の自己を見出した時である。
エンカウンター・グループはこうした自分の孤立、他人との関係の欠如をいやしてくれる。第一段階では、自分にさえ隠している孤独感を腹の底から経験する。例えば友達がいないが欲しいと思わないというところから、深く通じあう関係をどれほど求めているか気づく。
自分の孤独をひそかに隠す要因は、真実の自己、内的自己、他人から隠している自己はだれからも愛されないと確信するところから生まれる。これは子どもの真実な態度が大人から叱責されることから生じる。あらゆる人が魅力ある愛すべき少女だと思う本人が、こころの中で自分を全く愛されない者とみている。
多くの人生の一部になってしまっている深い個人の孤独は、他人に真実の自己を示す勇気を持たない限り改善されない。真実の出会い、冒険することによってのみ改善される。こうして恐れるものは何もないことを学ぶ。武装を解いて防衛せず、ただの私としてあらわれる。弱点・欠点を持ち、過ちを繰り返し、無知であり、偏見を持つ、状況に合わない感情を持つ事実を受け容れる。これによってはるかによく真実でありうる。
傷つきやすいことを受け容れることで、他の人々からも真実の感情を多く引き出す結果、他者と非常に近い関係になり、多くを学ぶことができる。勇気をふるって内的自己になる時、グループの全員が仮面より真実の自己に容易に好意を持つことを発見することは本人、メンバーに感動の体験となる。
自分が尊敬と愛に値する人間であると実感し、ありのままの自分が愛されるということを人間として発見する時だけ自他の真実の自己がお互いに触れ合う。ここにブーバーのわれと汝が生じ疎外の解消が生じる。エンカウンター・グループは、現代文化の多数が持つ孤独・疎外の感情を解決する現代的発見なのである。
4、人間の成長(学習観)について
ロジャースはGibb(1970)のグループトレーニングについての実証研究から、集中的グループ経験は治療的効果を持つこと、またグループは心理学的な成長促進効果を持つことを指摘する。
具体的には感受性、感情処理能力、動機づけの方向(自己実現・決定・コミットメント・内的志向)、自己に対する態度(自己受容・尊重、理想の自己と知覚されている自己の一致)、他者に対する態度(権威主義の減少、他者受容の増大、組織と統制の強調の減少)、相互依存などに変化が生じる。
そして彼自身はエンカウンター・グループの変化過程の特性を研究した。週末16時間のグループが映画撮影された。ファシリテーターが2名とメンバーが8名である。前半1場面、後半1場面、各個人の2分単位の10場面を偏らない方法で取り出してランダムにつなげ13人の評定者に見せた。
そしてロジャースのプロセス・スケール(ロジャース『サイコセラピーの過程』全集4巻の7章、9章)で、感情、自己の伝達、経験の構成の仕方、対人関係、自己の問題へのかかわりが段階で測られる指標で(もともと個人治療の過程を測定するために作られたもの)個々人は、それぞれの違った時点に関して、段階1から6までのどこにあるかを評定された。
その段階とは次のようなものである。
第一段階-話す内容は外面的。自己を伝えるのにためらい
-感情・個人的意味は認識されていない。密接な関係は危険
第二段階-感情が時に叙述。でも、自己にとって外的な所有されない過去のもの
-自分の主観的経験から遠く離れる。自己に関連しない話題は自由に自己表現
-自分の問題、葛藤は外的なこととして認知
第三段階-いまここにはない、感情および個人的意味を多く述べる。
-これは受け入れらないないか、悪いものとして描かれる
-場面を経験する仕方は大部分がすでに過去に起こったこととして述べる
-対象としての自己についてより自由な表現の流れがみられる
-自己について語られるのは、主として他人の中に存在する反射された対象として
-個人的構成概念は堅いが、時にその妥当性に疑問を持つ
-どのような問題も個人の外面より内面に存在するという認識の芽生え
第四段階-感情と個人的意味が、自己によって所有された現在のものとして自由に叙述
-激しい感情は今あるものとして述べられない。感情の吹き出しは恐ろしい
-自分が何かを経験しつつあることは好ましいよりも、恐ろしい
-経験の矛盾が明確に認識され、それに対する深い関心
-個人的構成概念がゆるみかける
-問題に関する自己の責任がいくらか表明される
-個人は感情を基盤に他人とかかわるという冒険を時によろこんでする
第五段階-多くの感情が生起した瞬間に自由に表明され、瞬時的現在にそのまま経験
-感情は受容されるか、所有される。
-以前否定した感情が意識に、恐れる気持ちも
-矛盾はパーソナリティのいろいろな側面の態度間に存在するものとして認識
-自己に関係した感情・<真実の私>でありたい希望
-多くの個人的構成概念の妥当性への疑問、自分の中の問題にはっきり責任を持つ
第六段階-以前否定された感情が、今や瞬時性と受容をもって経験される
-こうした感情は否定する、恐れる、戦うものではなくなっている
-この体験過程は、個人にとってしばしば生々しく劇的で、解放的
-経験は潜在的な意味に到達するために有用なものとして受け容れられる
-個人の堅い構成概念が自分の解釈であると認識される時揺れ動く感じを持つ
-他人との関係において動いている自分に徹する冒険を試みる
-自分自身であるという流れに冒険的に飛び込み、他人がこの流れにある彼を
彼として受け容れることを信頼する
結果としてグループ全員が柔軟性、表現の増大の方向へ有意な動きが生じた。感情が生じた時それを表明しはじめ、感情を基盤として関係を冒険的に発展していったのである。
5、社会観、文化観
ロジャースはグループの未来について、いくつかの示唆を行っている。
(1)グループに個人的利益のために参加した搾取者の手に掌握される可能性
この時、エンカウンター・グループ運動は災難にぶつかる
(2)ファシリテーターの過度の熱意、行き過ぎの技法
この時、一般の人から非難を受ける
(3)極右勢力によって締め出される可能性
(4)エンカウンターの本質的特性を保持するグループがもっと増加
麻薬の手を借りなくても人生を満喫できる
今にして思えば、彼の予言は的確だったと言えるだろう。日本におけるTグループ運動は、多くの営利的目的を持つ搾取者のためにねじ曲げられ、またファシリテーターの過度の熱意、行き過ぎの技法によって非難にさらされてきた。さらには効率重視の研修を重んじる風土の中で、組織における学びの中でも主流の地位から締め出されている。
しかしロジャースは例えエンカウンター、Tグループが消え去っても、すべての基本要素は装いを変え働き続ける可能性もあると指摘する。進歩的教育が批判され姿を消した中でも、デューイの考えが受け継がれているようにである。なぜならエンカウンター・グループ運動は非人間化に悩む我々文化に対抗する力になるからだ。
そこで私たちは自分をかけがえのない個性を持つ個人として経験し、人間尊重へと導かれる。それは現代生活における個人の孤立と疎外を克服する試みであり、個人の充実と成長への道を開く。また男女関係の問題に対する新しい解決法となる。
われわれの文化に対する意味としてエンカウンターのもっとも重要な意義の一つは、個人が変化に適応するのを援助することにある。科学技術の大きな変化の中で、グループが個人に変化に対する自分の感情に気づかせ、変化を建設的な可能性にしていっている。それは変化の必要性に気づき、組織、制度の絶えざる更新のための手段になる。またグループは個人間、集団間の緊張を処理する手段となる。
グループの哲学的価値として、人間の感情と生き方について<いま、ここで>を強調する。これはマズロー、メイ、キルケゴール、ブーバーの哲学的姿勢を反映し、実存的意義を持つ。言い換えれば人間そのものに持っている価値観を鋭くする。われわれの持つ人間モデルは?人格発達の目的は?最適な人間の特性は?などである。
自由で促進的風土の中で、メンバーはより自発的で柔軟で、自分の感情と密接に関係し、自分の経験に開かれ、対人関係でより近づきやすく、親密さを表現しやすくなる。これは多くの宗教的、文化的、政治的視点とは全く逆である。われわれの社会における平均人が望んでいる理想・目的に向かって進んでいない。