木村敏『あいだ』の要約

1、はじめに

 この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、我々ひとり一人が生きているという事は、我々の存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。そして私たちが持つある種の感覚(共通感覚)は、この根拠との繋がりを直感的にとらえるための感覚である。

 

2、生命の根拠への関わり

 この本はヴァイツゼッカーの「ゲシュタルトクライス」という考えに影響を受けている。生命一般の根拠へのかかわりは、主体性という洞察によって人と人との関係に置き移す事が可能となる。間主体的人間関係はどのような構造を持っているかについて、「生きているものの学」からはじめる。人間の学はなにより生命の学でなくてはならない。

 

3、主体と転機

 主体とは自分自身の力で自分自身との関係において動作を行う存在(意識を失っていてもある)であり、有機体と環境とが絶えず出会っているその接触面で、その出会いの根拠としての原理である。主体としての有機体が客体としての環境と出会うのではない有機体が環境と出会っている限り、その出会いの中で主体が成立する。1つの出会いが途切れても、必ず新しい別の出会いが生じる。そこに新しい主体が誕生する。

 転機(変化の節目)は主体消滅の危機であり、主体の存在を見極める絶好の機会となる。私たちは人間関係に転機がもたらされる時、その都度新たな出会いを確立し主体を維持していく。このように消滅と生成を繰り返しつつ有機体はちぎれる事のないまとまりを維持する。これは不連続の連続といってもいいだろう。これを保証するのが有機体の知覚と運動のからみあいである。

 

4、音楽のノエシス面とノエマ面

 音楽においても演奏者が絶えず音の世界とのあいだに樹立する出会いの原理の中で演奏者の主体性が生まれる。音楽の演奏では(1)瞬間瞬間に音を作り出す行為、(2)自分の演奏している音楽を聴くこと、(3)これからの演奏を予期して一定の方向を与えるということが同時に行われている。

 

 (1)は一瞬一瞬の現在において直接的な生命活動の一環としての音楽を産出している働きであり、これをノエシス的な面という。一方(2)、(3)は全体的まとまりを構成するための『意識されている音楽』であり、これをノエマ的な面と呼ぶ。ノエシス的働きをノエマ面に投影する事なく意識する事は不可能である。

 純粋な現在の瞬間は意識されない。時間意識で、純粋な現在の瞬間は意識されない。意識された時間は常に過去か未来である。時間が意識されると空間的イメージに変化する。それは一直線上に並ぶノエマ的時間である。演奏者が絶えず音の世界とのあいだに樹立する出会いの原理によって演奏者の主体性が生まれる。

 

5、合奏の構造

 

 理想的合奏においては、演奏者はノエシス的自発性の中で自分の演奏をすると同時に、合奏全体ですら自分のノエシス的自発性のように感じる。音楽が音楽全体の流れの中で、自然に自分以外の演奏者に移る体験もする。こうした音楽の成立する場所は、誰のところでもない「虚の空間」であり、各演奏者から等距離にある。つまり「あいだ」にある。各自がノエシス的自己帰属感を持ちつつ、各自の間にも見いだされる。

 

 そして次に来るべき音が、「音と音とのあいだ」に内在する自己運動的な動的構造から生み出される。つまり「間」は未来産出的な志向性を有する。合奏の成立とは、「間があう事」であり、出会っている主体同士が共通の生命的根拠とのノエシス的繋がりを共有することで合奏音楽全体の世界と出会う。主体と主体のあいだは主体内部のノエシス的なあいだを包み込む事で1つの統合的なノエシス的原理として働く。これがメタノエシスである。

 

6、間主体性とメタノエシス性

 

 哲学の伝統ではノエシスとは人間の意識の対象志向的な作用の側面、ノエマとはノエシスの作用によって志向され構成された対象とされる。この本ではノエシス的とは有機体である人間が、その生命の根拠に根ざした活動として世界に向かって働く動的志向性ととらえ、ノエマ的とはノエシス的な生命活動が意識面に送り込んだ代表者(表象)ととらえる。

 

 私たちはノエマ的な表象を媒介にして外部の世界と出会っている。知覚の本質は表象であり、知覚されたものは表象的な再現前としてしか意識に上らない。つまり私たちは刺激を受け取り、それを表象として加工する事で世界と出会う。こうしてノエシス的面がノエマ的な面を生み出す。同時に、ノエマ的な面がノエシス的な面を限定する。実際の意識活動では、ノエマはノエシスに支えられ、ノエシスはノエマに支えられる

 

 例えば音楽の全体が、各自の個別的な意志から独立した自己生産的な自律性を持ち、それ自身のノエシス的な志向性によって、次に来るべき音を勝手に予想し、各演奏者はこの予想を実現する形で後を追っている。つまり合奏におけるメタノエシス的原理が、個人の演奏のノエシス・ノエマ相関(つまり主体)に絶えず先行しながらこれを規制し限定している。

 

7、主体の二重性

 

 これは音楽でも話をする事でも同じである。話された事が次に話す事を限定する。これは単なるノエマではなく、文章そのものがノエシス化し第2の主体となる。これは間であり、それ自身のうちに未来産出的な志向性を有する。本当の間は音と音との隙間ではなく、音のなっている最中にも開けている。第2の主体は第1の主体に対して、ノエシスのノエシス、メタノエシスの立場にある。主体内部のあいだとは第1の主体と第2の主体のあいだのことである。

 

 主体内部で働いている間のメタノエシス的原理がさらに高次の間主体的なメタノエシス的原理に方向づけられ、それに包まれる。一見、無限に続くかにみえる包み、包まれる関係は、生命一般の根拠に根ざした世界との関わりの原理としてのノエシス的作用が示す諸様態にすぎない。

 

 有機体と世界の出会いは常に現在の出来事であり、転機によって常に消滅の危機にさらされながら、その都度立て直される「不連続の連続」であり、ノエシス的行為の主体でもある。生命の根拠と絶えずかかわり続ける「根拠関係」としての主体は個々というより生命あるものすべてが共有する原理であり、間主体的なメタノエシス的原理である。根拠関係としての主体が、出会いの原理としての主体を包含し限定している。

 

8、共通感覚と構想力

 

 有機体に出会う世界は常に変化しているので、有機体も常に行為面、知覚面を変化させないと繋がりを維持できない。これが主体のノエシス的作用である。このノエシスの働きは、生命の根拠とのつながりを直接感知する一種の感覚によってつねに一定の方向に導かれる(メタノエシス的性格)。これは五感を越えた深い感覚で、共通感覚と呼ばれる。この共通感覚とはアリストテレスによって提示され、全ての感覚に共通しているもの、感覚を感覚するものである。生命の根拠に支えられ世界と出会う行為的原理であり、世界との実践的な関わりの感覚である。共通感覚、コモンセンスとは、ある共同体のメンバーが共有する「間主体的世界との実践的な関わり」についての(メタノエシス的な)明文化しにくい根本的な感覚(合奏にあわせる本能的感覚)と言える。

 

 インゲニウムとは、異なったもののあいだの共通性を見つけ出し、相互にはなれたところにある異なった諸事物を一つに結合する能力であり、想像力、構想力と言える。感性と悟性を根源的に統一する未知の共通の根は、感性的本質を持つ。これまでのノエシス、ノエマの関係にあう

 

9、あいだの時間性

 

 メタノエシス的原理と個々のノエシス的作用の間には決定的な時間のズレがある。メタノエシスは各人の意識の中で個々のノエシス的行為よりも先行する。これは未来に向かってのズレである。未来や過去が意味を持つのは、生身の人間が生命とのつながりの中でノエシス的な活動を行っているときだけに限られる。「これから」の生命活動の方向が未来であり、「これまで」が過去である。未来は方向、過去は蓄積であり、過去は時間ではない。

 

 ところでハイデッカーは現存在の根本的あり方について、自分自身が存在するということに関わっているが、そのかかわり方は自分自身の存在に先立っているとしている。自分自身へと到来する事が未来、将来なのである。デリダは、世界は「いま」の純粋な現在において単純にわれわれに与えられていないという。意識における現在の行為が過去の道筋を引きずっていて、それが現在に間隙を穿つのだ。それはパロール(音声言語)とエクリチュール(書字言語)の関係でもある。エクリチュールの反復可能性がパロール成立の必須条件である。これがアルシ・エクリチュールである。パロールがアルシ・エクリチュールを引きずる構造が「差延」である。これはノエマ的音楽の痕跡としてのメタノエシス原理と同じ構造を持つ。

 

 生命一般の根拠に根ざした世界との実践的・行為的なかかわりとしてのメタノエシス的原理は個々の現在におけるノエシス的行為に「先立ち」、それに未来の方向を与える時間的原理を含んでいる。主体はそれ自身の内部において未来への方向というズレを含んだ二重構造となっている。

 

10、アレクシシミアと構想力

 

 心身症は、困難に直面した際、神経症などにならず、種々の身体症状を出すアレクシシミアとは自分の感情を言語化可能な形で知覚する能力の欠如のことだが、身体的な症状に転化する。

 ノエマ的意識は言語の媒介なしに成立しない。有機体は、環境全体の中から自分の感覚器官が伝達してくれる面だけ切り出してそれを認知し、自分の運動機関の及び得る面だけを切り出してそれに対し行動する。これを環界と呼ぶ。例えばダニにはダニの環界がある。人間が環境全体から状況を切り取る時には、感覚器官に加え「自由な構想力」が挟み込まれる。つまり状況を解釈する余地がある。

 

 この構想力が未発達だとストレスに気分や情緒のレベルで対応できず身体器官のレベルで対応してしまう。口唇期へ退行したり、胃液の分泌で胃潰瘍になったりする。心身症患者の対人関係では感情的、情緒的ニュアンスに関心を向けない。無味乾燥な関係である。ものとの関係から一歩退いて距離をとることができない、内面的世界を外面的ものとしてしかみない。このように構想力は心とからだの継ぎ目で第2の皮膜になっていて人間関係を動かす。

 

11、あいだの生理学から対人関係論へ

 

 自己とはわれわれと世界との関わりの原理である。無我夢中である時、純粋にノエシス的に行動している。純粋経験と言えるだろう。意識のノエマ面で、自らを「自己ならざるもの」としての他者から区別する時、自己が成立する。これはノエマ的表象、シニフィアンであり、差異の体系が求められる理由でもある。ここで対人関係の必要性が生まれる。

 人間が他者との社会的関係の中で、自らの生存を確保する必要が生まれた時、新しい現実とのノエシス的関わりを主体的自己として生きる。それが意識に映し出されたノエマ的表象が、自分の認知する自己である。

 

12、我と汝の「あいだ」

 

 ブーバーの思想の背景にある「永遠の汝としての神との出会い」だが、「あいだ」の領域が神の似姿としての人間的他者との出会いの場所として宗教的意味合いを帯びるのは確かである。しかしもっと経験的レベルで考えておくべき事がたくさんある。「あいだ」が神との出会いの場所でもありうるのはどうしてか?どんな構造をもっているのか?自己を世界とのあいだに働いている関わりの原理として見る時、特別な宗教体験によらず日常において「あいだ」を見いだせるのではないか。

 

 私の対象へのノエシス的なかかわりについてのメタノエシス的共通感覚が前面に出て、ノエマ的表象に注意が向いていない時、私は「汝」として経験する。またノエマ的表象に焦点があたる時「それ」として経験するのではないだろうか。また人間的実存は、食うか食われるかの側面も有しているはずで、「他者」とは「汝」である前に、主体自己の安定を脅かす「恐るべき他者」でもある。

 

13、もしもわたしがそこにいるならば

 

 見知らぬ土地の一本の道に懐かしさを感じる体験がある。ふと生まれた内面の歴史に組み込まれる自己移入、思い入れ(フッサール)という体験である。これによって他者を「別の私(他我)」として経験する(間主観性の成立)ことがある。「そこ」にあらわれる物体としての他者を、私固有の領域である「ここ」の私の身体と類比し身体として把握し重ねあわせる。「もしもわたしがそこにいるならば」と自己移入するのである。

 

 こことは他と区別された交換不可能な特権的ここであり、あそことは交換可能な相対的な場所である。そして空想によってあそこが交換不可能な「ここ」になる。ブーバーの「それ」は相対的なそこ、ノエマ的なそこである。「汝」とは絶対的なここであり、ノエシス作用のなかで経験全体の発生する場所である。一回きりの生を生きている場所である。私は「ここ」の場所で生命行為として世界の経験をいとなんでいる。この生命行為の絶対的な一回性がノエマ化されることなく、そっくりそのままそこに移るとそこの絶対化が起こる。

 

 「ここ」の絶対性は、ここが主体の場所であり、一回きりの生命を生きながら生命の根拠との関わりを保っている場所であることから生じる。主体とは出会いの原理であり、こことそこの出会いの場である。主体の絶対性は出会いの原理の絶対性であり、こことそこのあいだの絶対性である。汝の他者としての絶対性を西田はいった。あいだの場所とは空間ではなく、そうとしか言えない一種の働きのことである。

 

14、絶対他者の未知性

 

 時間の経過という普通の歴史と一瞬につくりあげられる内面の歴史がある。西田は言う。我と汝はノエマ的には絶対の断絶であるとともに、ノエシス的には直接の結合と考えられる。自己自身の底にある「絶対の他」によって媒介される。また歴史形成の中で今の瞬間と次の瞬間も絶対の他で媒介される。昨日の私は今日の私を汝と見る事で、また逆によって個人的自覚が成立する。これが非連続の連続である。

 

 この絶対の他、すなわちあいだは、生命一般と直結した一種のノエシス的作用である。レヴィナスは、主体的自己は単独者として孤絶している、ただ他者の背後から自らに語りかけてくる「絶対的他性」の言葉への応答を通じてのみ他者と出会い交流できると述べる。ハイデッカー「共にあること」やフッサール「間主観性」には絶対的他性は見いだせない。自己の認識の光に照らし出された他者にすぎない真の他者とは、自己について絶対的な外部である必要がある。

 

 時間が生成するのはそれぞれの瞬間が他の瞬間と絶対的に異なるからである。こうした絶対的差異は、出会う他者の絶対的他性を通じて与えられる。つまり自己内部だけだと時間は生成しない。同時に瞬間瞬間の間に他性が見いだされず、時間が生成しないところには他者の絶対的他性も成立しない。

 

 未来へ向かう運動において、今と今それ自身との間に関係が生じる。これが「間」であり、ここには未知のものを待ち構える緊張がある。他者とのあいだは、自己の底で絶対の他に触れることで、そこに時間が、未来への動きが生じる。

 未来に投影すれば死(無)と表象せざるをえない。「生命の根拠」が不可知であることが未来や他者の未知性につながる。生命の根拠との関わりで自らの主体自己を維持する中で、自己に対する否定的契機である他者を否定仕返すと他者をノエマ的表象に変え、自己の支配圏内に取り込む事になる。

 

15、こと・ことば・あいだ

 

 他人と出会ってあいだを確認しあうのは言葉によってである。例えば「窓ガラス」という言葉は、私が「もの」をどうみているかを言い表したものである。ところで「こと」とは、自らの生命的関心に従って世界と実践的にかかわる時に見えてくる事象である。「窓ガラス」とはものの名前以前に「それが窓ガラスであるということ」の符号である。

 

 従来、言と事とは未分化であった。それが分かれると言はコトノハといわれるようになった。つまりことばは、ことのすべてではなく、ほんの端にすぎないものである。窓ガラスが単語として定着すると言語と関係なく客観的なものとして実在している錯覚が生じる。ものの名称として定着することは、共同体が共有しているノエマ的表象との間に1対1対応することである。

 人間は世界から言語化可能な事物、つまり「コト」を切り取る。そしてこの切り取り方で言語体系が異なる。これは共同体の共通感覚の違いと言えるだろう。汝は、言葉では言い表せないコトである。そしてコトは人と人、人とものとのあいだに起きる。つまり「あいだ」がことである。

 

16、「あいだ」の病理としての分裂病

 

 精神異常とは、他人との適当な距離の取り方の異常である。ノエシス的作用、行為的働きとしての「あいだ」は、ことが成り立つ場所である。ノエマ的あいだはノエシス的あいだの意識への投影面であり、差異体系としての言語構造に支配された限定態である。

あいだの病的様態が精神分裂病であり、「相手との間が滑らかさと潤いを失い、自然な感情が出せず、間が持てなくて苦痛」を覚えることである。これは間の不成立と言えるだろう。

 

 例えば自己の中心部の他者による簒奪体験は分裂病でのみで起こるが、ここでは絶対の他が自己の根拠でなく他者の根拠になっている。ここでは自己の個別化が成立しがたくなっていて、自己が他者と絶対的に区別される独自の個別的存在として自己自身を自覚する「こと」が難しくなっていることを示す。

 

17、ダブルバインド再考

 

 ベイトソンはコミュニケーションの字義の意味とメタレベルの次元的差異が主体性障害に繋がると主張した。一方では禁止や命令をして違反すれば見捨てるとメッセージを出す。もう一方は第一の禁止や命令に従うことを禁止する。例えば子どもの肩を抱いてすきじゃないの?とたずねながら、身体をこわばらせる母親がそうである。

 我々の用語で次元の差異を言うと、ノエシス的メッセージとメタノエシス的メッセージの差異であり、ことばと「こと」との間のズレと言える。このズレは言語活動、意識活動を構成する本質的契機である。

 このダブルバインド関係では、自己や時間を生成させる働きとしての「絶対の他」が排除されている。絶対の他が確実に働いている「あいだ」の場所でのみ人と人との間は潤いが感じられ「気」が伸びやかに活動し「間」が「間」としていっさいの出来事を生み出す。このような状態を「自己」と呼ぶ。

 

18、「みずから」と「おのずから」

 

 西洋では自己は内面性として内部に、自然は外部にあるものととらえる。一方東洋では自然さの自然、「おのずからそのようにあること」(老子)が強調され内部外部の区別がない。日本語の自己=「みずから」、自然さ=「おのずから」に両方「自」が含まれることでもわかる。

 

 自然とは、行為者が何一つ手を加えず「おのずから」を「おのずから」のまましておくことであり、何らかの始まりがある起源からの発する運動が、行為者の意図で曲げられることなく、そのままあらしめることである。

 

 このある起源こそが「生命一般の根拠」ではないか。これは認識できない。それとの実践的・行為的な関わりを通じて「生きる」以外にないものである。私たちは生命を与えられた身体としてこの世界に生存するが、この起源は一瞬ごとにわれわれの身体を貫いて、その都度新たに始まり続けている。

 

 我々が個々のノエシス的行為を通じて生命の根拠と関わるということは、無限定の「おのずから」を個別的な「みずから」の中へすくい取って、自己として限定することである。みずからと身ずからである。私たちは身なしに生きることはできない。個別的身体の唯一性、一回性の中にある。

 

 自己が主体としての生命を生きるということは、一方で生命一般の根拠の「おのずから」の動きに関わり、一方で間主体的世界に向かって自己を非自己と区別し、自己と非自己のあいだで「みずから」の交換不能な存在を維持することである。

 

 ここでは自他未分の「自」の根源的自発性が「身」の門を通過して「身ずから」の個別性に収斂する必要があり、これがうまくいかないと分裂病になる。「近代化した人間」だけが、生命の直接性とのかかわりの他に、他者に対して自己を主張しながら社会的環境にかかわる過剰な課題を与えられている。

 

19、結び

 

 これまで書いてきたことは、生命的自発性の水圧がいっぱいにかかった水源から、個別的に分離した身体的存在の出口を通って迸り出る噴水のイメージで表現できる。一つ一つの噴出口から弧を描く水の曲線が個々の自己で、それを写真に撮ったものがシニフィアンの差異体系の中で限定を被った自己である。

 

 水源で水が噴出口を通って出るまでの動きが「おのずから」であり、噴出口からの水の動きが「みずから」である。噴出口にかかる水圧は、個々の生命的行為に方向を与えるメタノエシス原理である。噴出口以前は自他の未分離状態で、渾然一体となった「おのずから」の動きがあり、噴出口の後は自己と他者はあくまで別の水の曲線となる。

 

 筆者が人と人との「あいだ」、自己と他者との間主体的な「あいだ」という概念で考えているものは、この「おのずから」の動きのことである。自己が自己として、他者が他者として出てくる源泉のような場所である。しかし私たちは自他分離後も、分離以前のあいだを感じとる能力を保持し続ける。

 

 これは水圧を感じ続けることであり、水流そのものとは別の存在様式である。これは別の感覚でしか知覚できない。それは動いているものと動きが別の感覚次元に属しているのと同じである。「水圧」は水にとって「絶対の他」なのだ。

 

 

 

 

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