ジェンドリンの体験過程の理論

体験学習のプロセスの1つの要素である「指摘」は次のように説明できる。「指摘とは、経験したことを思い起こして、その特殊な部分を選択することである。すなわち、お互いがその現象をよりよく理解したいと思う特定の行動を分離、抽出し、それに焦点を当てることである。」

 

ところで私たちが何かを体験し、そこでの体験を選んで「指摘」するというプロセスには、言葉になる以前の身体のレベルでの活動が存在すると考えられる。例えば誰かに厳しいフィードバックを受けて、グッと来る感じはあるのだが、それが何なのかまだ言葉にできないというような状態である。

 

言い換えればそこには、ピアジェの感覚運動期の要素が含まれるといっていいだろう。感覚運動期とは、頭で考えるというよりも、動作を含めて、感覚に依存しながら考えている段階であり、 “体で反応する”具体的かつ行動的な学習スタイルである。つまり私たちは何かを行う中で、内からの衝動や外部からの刺激などをまず身体のレベルで感じとっていく。そしてその中で選択されたものに焦点が当てられ、言葉にして明確化していく。これが指摘のプロセスといっていいだろう。こうした観点から、体験からの学びをよりよく理解するには、身体のレベルで感じている体験を、言葉にするというプロセスをより深くとらえておくことが必要となる。

 

そしてこれを可能にするのがクライアント中心療法を築いたロジャースの共同研究者であり、フォーカシングを創始した、ジェンドリンの体験過程の理論である。以下ジェンドリンの理論をレビューしていこう。

 

ジェンドリンは元々哲学の出身だが、自分のテーマを追求する過程で、ロジャースに弟子入りし、共同研究をすすめた。ロジャースは、自己概念と経験の関係を追求し、自己概念とあわない経験を排除してしまうのではなく、新しい経験を受け入れ、新しい自己を発見していく中で、自己概念と経験の一致が起こり、自己成長が促されると考えた。これが「経験の受容」の考え方である。

 

ジェンドリンはロジャースのカウンセリング理論を受け継ぎながら、経験の受容を「体験過程」の観点から説明することで、そのクライアント中心療法を発展させた。そして経験の受容、つまり体験過程を促進するために、「フォーカシング」という方法論をまとめた。

 

ジェンドリンによると、私たちはある物事や問題・人に対し「どう感じる?」と問われた時、何かが感じられていてもそれが何だかわからない、よくわからないけど、もやもやしている、胸が重苦しいなどの「感じ」を抱くことがあるという。つまりはっきりした形やイメージ、言葉、感情になる前の未分化な「感じ」である。これをジェンドリンは「フェルトセンス」と呼んだ。

 

これを無視し、見過ごしてしまうと、経験の受容による自己成長は起こらない。ジェンドリンはこの未分化の「感じ」に注意を向け、それが言葉やイメージになっていく(象徴化される)ように丁寧につきあうことで、経験の受容、つまり体験過程が促進されると考えた。このように体験過程の理論では、私たちが受容を求められる経験について、頭でとらえるより前に身体は知っていると考える。つまり身体の知恵を信頼するのである。

 

そしてこうして体験が言葉やイメージになっていく(象徴化される)ことで自己概念の中に取り入れられるプロセスが「気づき」であり、それをロジャースのいう経験の受容ととらえていく。このフェルトセンスは、(例えばある人とのかかわりにもやもやした違和感がある)現状の自分を示すとともに、自分がよりよくあるための変化の契機を含んでいる。(何がこんなにもやもやするの?何が必要なの?)

 

フォーカシングでは、フェルトセンスには4つの側面(からだの感じ、気持ち、イメージや象徴的表現、生活との関連や事柄)があるとされるが、それらに丁寧に焦点を当て、経験が受容されると、身体的特徴として、必ず身体に何かがほぐれた、気持ちのいい感じが伴うとする。これは「腑に落ちる」事といってもいいかもしれない。

 

この考え方はカウンセリングの有効性に関する実証研究から生まれたといわれている。1960年代初めジェンドリンは「心理療法でなぜ効果のある人とない人がいるのか」の疑問をもち、何百という心理臨床場面のテープを検討した。そして治療の成功度合いをセラピストとクライアント双方にたずね、別の心理テストも行って有効な変化があったかどうかを測定した。

 

結果として治療が成功するかどうかはセラピストの行為にかかるのではなく、クライアントの話し方で判断できることがわかった。つまり治療が成功する場合、クライアントは話し方がゆっくりとなり、言葉の歯切れが悪くなり、その時の「感じ」を言い表す言葉を探し始めていた。逆に治療が成功しないクライアントは面接のあいだ中、言いよどむことなくすらすらと話していた。ジェンドリンは、こうした心理臨床の側面での実践と研究を積み重ねつつ、自らの考えを1つの理論にまとめていった。これが「体験過程と意味の創造」(1962)である。その考えの要点は次の通りである。

 

一、身体の捉え方

 彼の理論は、人間の身体が種に特有なあり方で環境と相互作用しているという考えからスタートする。いわば環境と相互作用する身体は、自己によって秩序づけられる自己組織化プロセスを持っている。そして身体は生き続ける限り、生き続ける方向への変化(=推進)をし続ける。


二、体験過程

 こうした推進の流れは、植物や他の動物にもあり、通常この流れは個人に知覚されない。これを暗在的複雑性と呼ぶ。これには身体と環境が相互作用していく秩序がある。そして人間身体は身体と環境の相互作用プロセスの暗在的複雑性(=身体的秩序)を内側から感じることができる。これを「体験過程」と呼ぶ。この暗在的複雑性の秩序は、個別的体験を通じ「体験された意味」として暗在している。

 

三、直接照合とフェルトセンス

 この意識されない体験過程の不断の流れに注意の焦点を向ける(指し示す)行為を「直接照合」と呼ぶ。この中で例えば後に「暖かい感じ」「重い感じ」「流れ」という言葉などであらわされるような「同一」になれる「感じ」が跳びだしてくる。これを「直接照合体」と呼ぶ。これは具体的には、まだ言葉にはならない「フェルトセンス(この感じ)」として感じられる。つまりフェルトセンスとは、身体の内側に注意を向け直接照合すると感じられる「体験過程の特定の局面の感覚」(身体秩序の身体内的受容感覚)といえる。前述のようにこのフェルトセンスには「次ぎ」にくるべきもの、つまりその状況で言うべきこと、すべきことなどが暗在している。

 

四、言葉(イメージなど)とフェルトセンス

 私たちは何かを知覚する際、常にそれそのものとそれを示す言葉やイメージを同時に知覚する(例えば「ある人の存在」と「暖かさ」)。この言葉やイメージは本来、その存在についてのフェルトセンスと二重化されている。そしてこの「暖かさ」という言葉は、今ここで、ある人について身体が感じ取っているフェルトセンスと相互作用させることができる。そして身体はその身体感覚にとって適切かどうかのフィードバックを返すことができる。それが「そうそう、それそれという感じ」をもたらす。

 

ただしいつでもフェルトセンスに全くぴったりの言葉が見つかるわけではない。つまり言葉とフェルトセンスは1対1で対応するわけではない。複数の言葉やイメージが「表現したいフェルトセンス」を取り囲み、その中から新しい局面が「表現したいフェルトセンス」を表現するように立ち上がってくることもある。まさにこれはいまここで感じているフェルトセンスから生み出されてくる言葉と言える。こうした言葉が見いだされると、体験過程は進展し、経験の受容が起きる。

 

一方、言葉はこうしたフェルトセンスを離れ、他の文脈でも使うことが可能である。暖かな部屋、暖かな色などである。こうしたフェルトセンスから離れた言葉は意味の共有理解、コルブのいう「了解」を進めるにはふさわしいが、この言葉をいくら語っても、経験の受容にはつながらない。これは操作的な言葉といっていいだろう。

 

この理論からは、体験から学ぶ際に、体験の中で起こってくる身体の感じを大切し、そこに焦点をあて、フェルトセンスを大事にして言葉にしていくプロセスを意識することで、「指摘」がより豊かで適確なものとなることが考えられるのである。