ラボラトリートレーニングの生成・発展過程

(1)ラボラトリートレーニングの誕生

 

 ラボラトリートレーニング、すなわちラボラトリー方式の体験学習は1946年米国コネチカット州で、クルト・レヴィンとその弟子たちによって実施されたワークショプにおいて誕生したことは、多くの論者によって紹介されている。(例えば中村・杉山・ 植平、2009)また1947年にメイン州ベゼルにおいて、いわゆるNTL(National Training Laboratory)が設立され、Tグループ(当時はベーシックスキルトレーニングと呼ばれた)を中心とするラボラトリーが行われた。ベネ(1964)によると、第1回のラボラトリーのねらいは次のようなものであったとされる。

 

 1、変革推進体(change agent)として計画的な変革の輪郭をつかみ、変革推進体としての必要なスキルを得ること、グループ発達に関する指標や基準について学習すること、という体系的な概念を内在化すること。

 2、(関係性やグループの)診断技術や行動スキルの実習をすること。

 3、行動の内容が、個人レベル、対人レベル、グループ・レベルからグループ間レベルまで「人間組織」のすべての領域をカバーすること。

 4、ラボラトリーでの学習を現場に適用しようとするメンバーの計画を援助し、さらにメンバーが自分たちやその同僚たちの成長に援助を与えること。

 5、メンバーが他者との関係において、またグループ全体の発達と関連させて、自分自身をより客観的に正確に把握できるようになること。

 6、民主主義的価値について理解を深めること。

 7、メンバーが変革推進体としてより機能するために、他の人々に伝えるために必要な態度とスキルを体得すること。

 

 このように当初のラボラトリーではグループをベースに社会を変革していくというレヴィンのアクション・リサーチの考え方が根底にあったと言える。

 ただ実際には数回の開催の後、このねらいは過大であると認識されるようになり、Tセッションのねらいはグループのプロセスに焦点化され、変革推進体やコミュニティの構造などは他のセッションで扱われるようになった。これは後に組織開発などの分野の確立につながっていく。

 

 

(2)アメリカにおけるラボラトリートレーニングの発展

 

 その後、ラボラトリーには臨床心理学者や精神医学の専門家が加わり、臨床的な傾向が強まり、グループ内の対人的なプロセスにトレーナーの関心が向いたとされる。スタッフやトレーナーの強調点の置き方によって、「グループ中心」、「対人関係中心」のラボラトリーが意識されたのである。

 

 また1950年代後半、NTLはアメリカ赤十字奉仕団、アメリカ聖公会、エッソ石油会社などに対してラボラトリートレーニングを行う支援を行った。特にアメリカ聖公会での組織的な実施は1956年から始まったが、それを推進したのが1953年にNTLのTグループをベセルで受けた聖公会のDavid Hunterであった。清里の清泉寮にTグループのためのハンターホールが建てられているように、その後彼は日本へのラボラトリーの導入に大きな役割を担うことになった。そして60年代に入ると、大学教育や産業界において、ラボラトリートレーニングが多く行われるようになった。

 

 同時にトレーニングにも様々なバリエーションが生まれた。例えば西海岸のUCLAでは正常者に対する治療としてグループプロセスの学習を強調せず、個人の感受性やパーソナリティを発達させることに主眼を置いた感受性訓練(ST Sensitivity Training)が発達した。これは後にマサリックによって日本の産業界に導入されることとなる。

 

 そのアメリカでは構成的な実習集が出版され、そのハンドブックが便利さなどから企業などで多く使われるようになっていった。またラボラトリーにおける個人の変革をベースとして組織・社会を変革するというアプローチに限界を感じたNTLメンバーは、アクション・リサーチのモデルをベースとしていわゆる組織開発のパイオニアとしてその理論や手法を開発していった。

 

(3)日本におけるラボラトリートレーニング

 

 津村(1996 「日本人の人間関係トレーニング」長田雅喜(編)『対人関係の社会心理学』第8章第2節)によると日本にTグループが導入されたのは、九州大学、名古屋大学、そしてキリスト教教育の流れであるという。しかし大学におけるTグループは試行的なものに終わり、ラボラトリーの発展に大きく寄与したのはキリスト教教育の流れ、特に1962年4月に設立された立教大学キリスト教教育研究所(JICE)であった。中堀(1984)によると第14回キリスト教教育世界大会が1958年に日本で開催され、教会の聖職者や教師に向けて本格的なラボラトリートレーニングが英語で実施された。これが第1回教会集団生活指導者研修会である。これはアメリカ聖公会がNTLとともに行っていたラボラトリーを基本とするもので、NTLの直系と言えるものだった。

 

 その後第2回教会集団生活指導者研修会が1960年にアメリカ聖公会から4名のスタッフを招いて、また第1回の参加者で研究会を続けていた日本人がスタッフとなり実施された。この研修会の成功を受けて、この種の運動を日本で推進する組織として、1962年4月に立教大学キリスト教教育研究所(JICE)が設立された。その後1963年からは「教会生活研修会」という名称で、1968年からは「JICEラボラトリー・トレーニング」という名称で毎年トレーニングが実施された。1970年代前半にかけてJICEの活動は非常に活発で日本におけるラボラトリートレーニングの中心として機能したのである。

 

 一方、アメリカにおけるTグループの隆盛を聞きつけた産業界は、企業研修にTグループを導入した。1963年産業能率短期大学は、UCLAのマサリックを日本に招聘し、第一回ST(Sensitivity Training)講座を開催した。これは日本企業のニーズと合致し、STブームとして広がっていった。しかしこれは一方で企業の望む人材への「作りかえ」が意図され、結果として倫理面での問題を生み出し、社会問題化することにつながった。一部の行き過ぎた研修では暴力が容認され、自殺者が出たり、トレーナーが逮捕される事件も起きた。このようにSTは当初のラボラトリートレーニングとは全く違うものとなり、1970年代終わりにはブームは終焉することとなった。

 

 一方1973年4月、ラボラトリー方式の体験学習を中心とした教育カリキュラムを持つ南山短期大学人間関係科が設立された。これは「人間の尊厳のために」という南山学園の教育理念を具現化するために、当時のスタッフがJICEに相談を持ちかけ実現したものと言われている。初代学科長にはJICE所員のリチャード・メリットが就任した。その後、1982年にJICE所員であった中堀仁四郎が人間関係科の専任教員になった。そして2000年4月、南山短期大学人間関係科は南山大学人文学部心理人間学科に引き継がれていった。Tグループは必修から選択科目になったが引き継がれ、実習型の授業も引き続き行われている。また1977年9月には南山短期大学人間関係研究センターが設立され、87年からは毎年同センター主催のTグループ(5泊6日)が開催されている。また92年からはTグループのトレーナー・トレーニングも実施されている。

 

 そして80年代以降のJICEの組織変更に伴い、Tグループ活動の継続に懸念を持ったメンバーが独自に活動を引き継ぎ今に至っている。大阪を中心とするSMILE(聖マーガレット生涯教育研究所)、中堀を中心とするHIL(ヒューマン・インターラクション・ラボラトリー)研究会などがそれである。